浦和レッズひと筋の男、山田暢久が引退後に歩んだ紆余曲折。現在は熱き指導者として奮戦中「進路も一緒に考えないといけない」

浦和レッズひと筋の男、山田暢久が引退後に歩んだ紆余曲折。現在は熱き指導者として奮戦中「進路も一緒に考えないといけない」

埼玉のクラブチームで中1を指導している山田さん。4月に本格的な指導をスタートさせたばかりだ。写真:河野正



 静岡の古豪・藤枝東高校から1994年に浦和レッズへ加入した山田暢久は、2013年に引退するまで浦和に20年在籍した“ワンクラブマン”だ。

 チームでの公式戦出場は725試合を数え、J1通算500試合出場も達成した。引退後は浦和のスカウトや社会人リーグの監督などを務め、今春から埼玉県のクラブチームで中学1年生を指導している。

 山田には浦和のほか、名古屋グランパスや横浜マリノス(現横浜F・マリノス)、ジュビロ磐田など8チームから獲得の申し出があった。浦和と名古屋に絞った末、「弱いからすぐ試合に出られると思ったし、最初に誘ってくれた恩義もあった」との理由でJリーグ2年目の94年に浦和の一員となる。

 同年4月27日の清水エスパルス戦に3トップの右ウイングでフル出場。当時の横山謙三監督は「デビュー戦としては合格だが、思い切りのいいシュートがなかった」と注文を付けた。当人は「福田(正博)さんからずっと“俺にパスをよこせ”って圧力が掛かっていたから、怖くて自分で打てなかった」と抗弁している。

 かつて日本代表の指揮も執った横山さんは後年、山田をこう評した。

「新人なのにチームで3傑に入る能力があり、体幹の強さやスピード、持久力に優れていた。山田のドリブルが戦術を引き立ててくれるからFWで使った。仕事場の大半が右サイドだったが、真ん中で使っていたらさらに大成したと思う。どの監督もどのポジションがベストなのか迷ったようだが、それだけ希少な万能選手だったということです」

 山田は歴代監督から寵愛され、GKを除くすべてのポジションを受け持つことになる。

 2年目はトップ下から始まり、ボランチを経て3バックの右ウイングバックと右ストッパー。3年目が左ストッパーと右ウイングバックを務め、4年目は右ウイングバックと4バックの右SBを任された。

 原博実監督が就任した5年目の98年は、41試合あった公式戦にチーム唯一のフル出場。41試合すべてで右SBに入り、翌年は右のSBとウイングバックを担った。J2に陥落した00年は右のSBとウイングバックとストッパー。01年は右のSBとウイングバックに、4バックのCBと3バックのリベロまで引き受けている。日本代表にデビューした02年、ナビスコカップで初優勝した10年目の03年は、一貫して右ウイングバックで躍動する。

 元同僚のギド・ブッフバルト監督から主将に指名され、初のステージ優勝を飾った04年と天皇杯を制した05年、Jリーグ王者と天皇杯の2冠に輝いた06年の3シーズンはボランチ、トップ下、右ウイングバックの3役をこなしている。
 
 アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)を制し、クラブ・ワールドカップ3位の07年は右のウイングバックとCB。翌年はボランチと右のほか、左ウイングバックでの初起用もあった。09年は右SBとCB、10年は公式戦35試合にすべてCBを担当。ポジションに変動がなかったのは98、02、03年に続く4度目の出来事で、「センターバックには、敵のストライカーを封じる楽しみがある」と事もなげに話していた。

 11年はボランチとCB、左右のSBを依頼されたが、さすがの鉄人も力の衰えは隠せず、12年のリーグ戦出場は20年間で最少の8試合(先発4)にとどまった。

 最終シーズンの13年は、同一クラブで20年目を迎えた日本人第一号となり、10月27日の柏レイソル戦で史上3人目のJ1通算500試合出場を達成。だが11月20日に契約満了を通告されると、逡巡の末に引退を決め「レッズで終わるのが一番いいと思った。20年もプレーできたので、やり残したことはない」と多芸多才な男はすがすがしかった。

 怪我による中長期の離脱は、07年秋に右ふくらはぎ肉離れで5週間休んだ一度だけ。天性の頑強な身体が永年勤続を可能にさせた。

 J1は501試合で25得点、J2が39試合で2得点。ナビスコカップは歴代最多の109試合に出場して6得点。天皇杯が53試合・5得点で、ACLは14試合・1得点という出色の戦績だった。

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 14年2月1日付で浦和の強化部に配属され、スカウトの傍ら育成年代の指導を補佐した。

 翌15年にはユースチームのサポートコーチに就任。火曜から金曜までアカデミーの指南役を務め、土・日曜は高校生と大学生の試合を視察するため、全国各地を飛び回った。現在アルビレックス新潟でブレイク中のMF伊藤涼太郎は、岡山・作陽高校時代の15年に山田が獲得した最初の選手だ。

 当時、スカウトとしての心得をこんなふうに話していた。

「高校生は試合ごとに出来、不出来があるので長い目で見てあげないといけない。人とは違う発想力があり、成長したら面白い選手になるな、という視点で見ています。大学生は即戦力として考えている」

 伊藤が頭角を現わしたのが、新潟に移籍したプロ7年目の昨シーズン。山田の目利きは正しかった。

 16年も強化部に籍を置いたが、翌年2月に離職する。

 日本サッカー協会公認の指導者資格A級ジェネラルを有する山田は、19年1月から埼玉県川越市のスクールで小学生らの指導に当たった。ところが転身してから間もない同28日、神奈川県社会人リーグ1部に昇格したイトゥアーノFC横浜の監督を打診される。6日後には天皇杯予選につながる公式戦を控える火急の要請ではあったが、ゆくゆくは指導者を目ざしていただけに快諾。引退から6年後に新人監督が誕生した。

 1年目は10チーム中7位。2年目の20年は、新型コロナウイルス感染拡大で思うように練習できなかったが、首位と勝点3差の4位に躍進した。2月16日の神奈川県社会人選手権決勝ではCBで現役復帰し、横浜FCなどで活躍した大型FW大久保哲哉をマンマーク。3年目は3位に順位を上げたものの、関東リーグ2部昇格につながる関東社会人大会出場を逃したこともあり、21年をもって契約満了となった。

 山田は監督業の難しさについて「監督の仕事というより、主力の大学生が就職活動でごっそり退団したし、学生はアルバイトで多忙だから、全員そろって練習することがほとんどなかった。頭を痛めたのはそういうところですね」と苦笑いした。
 
 昨夏から浦和で3シーズン同僚だった2つ年下の佐藤太一さんとともに、埼玉県幸手市を拠点に活動するRebola(リボーラ)フットボールクラブのスクールで指導を始めた。同クラブは中村彰宏代表が10年5月に設立。佐藤さんと中村さんは、幸手市の上高野スポーツ少年団時代からの竹馬の友でもある。

 昨年7月から小学6年生のスクールで講師をしていると、中村代表がジュニアユースの立ち上げを切り出し、今年4月から山田監督の下でスタートする運びとなった。2度のセレクションと体験練習会を実施し、27人の新中学1年生が加入した。

 4月から本格的な活動を開始。練習は火曜と木曜の午後6時半から2時間行なうほか、土・日曜はトレーニングマッチか練習に充てる。指導陣は山田監督をはじめ、佐藤、中村両コーチとGKコーチの4人体制だ。

 山田監督は浦和の強化部時代、高校生の指導を補助した経験はあるが、中学生を教えるのは初めて。「難しいこと? うまく言葉が伝わらないので、できるだけ分かりやすくかみ砕いて説明するように心掛けている」と即答すると、「中学生はサッカーだけ教えればいいというものではなく、人としても成長してもらいたいから、教育的な配慮も重要なんです。3年生になったら進路についても一緒に考えないといけない。この年代と向き合う難しさを痛感している」と顔付きを変えた。

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 今は止める、蹴るの基本練習を反復し、少しだけドリブルの訓練もしている。戦術を教え込むのはまだ先のことだという。

 1年生(U-13)の公式戦は9月までないため、チームを集めて独自のリーグ戦を実施して強化する計画だ。またU-14の大会は、5月21日に開幕する第33回埼玉県クラブユース選手権1次リーグがある。1学年上のチームに胸を借り、経験を積ませる目的でエントリーした。

 指揮官は「チーム作りはまだ始まったばかりですからね。3学年そろった時には戦えるチームにしたい」と2年後を遠望する。

 埼玉・花咲徳栄高校のエースFWだった佐藤コーチは、96年から浦和に3年間在籍した後、大宮アルディージャとモンテディオ山形でプレーし、02年に引退した。「山田さんの守備力はすごかったですからね。リボーラもチームとして、個人として守りの基本を作り上げているところ。監督は自分の経験をチームに落とし込もうと模索し、選手も信頼関係を築こうとしているのが伝わってきます」と期待を寄せる。

 山田監督は練習試合の合間に、選手としての心構えを厳しく諭した。

「プレーうんぬんじゃなく、戦う気持ちが全然感じられない。ヘッドで競り合った時、相手は思いっ切りジャンプしているのにうちはボールが落ちてから跳んでいる。必死に戦えば負けてもいいし、チャレンジして失敗するのも全然問題ない。でも、みんなはこれができていないよね。もっと戦う姿を見せてほしい」
 
 将来的には県リーグでの序列を上げていき、昌平高校の下部組織であるFC LAVIDAや浦和レッズ、大宮アルディージャが所属する関東U-15リーグ1部昇格を目標に掲げる。佐藤コーチは「このエリア(東部北地区)にはラヴィーダという怪物がいますが、いずれはうちがトップになりたい」と意気込む。

 山田監督は藤枝中学3年で、高円宮杯第2回全日本ジュニアユース選手権(現全日本U-15選手権)を制している。「今度は監督として優勝? 夢みたいな話だけど、志は高く持ちたい」と語る。

 ボールを支配し主導権を握る戦術が理想だ。47歳の指揮官は「誰もが成長できる年代なので、これからが楽しみ」と可能性について触れ、「中学がゴールではなくサッカー人生はまだ長いので、子どもたちが楽しく続けられるように指導していきたいですね」と所信を述べた。

取材・文●河野 正

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