Jリーグとはまったくの別物。ACLで体験した国際試合のインパクト【審判員インタビュー|第5回・木村博之】
2023年06月09日 15時35分サッカーダイジェストWeb

鹿島対名古屋のJリーグ30周年記念マッチで笛を吹いた木村博之主審。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト写真部)
「審判員」。サッカーの試合で不可欠ながらも、役割や実情はあまり知られていない。例えば、「審判員」と法を裁く「裁判官」を同等に語るなど、本質の違いを見かけることもあれば、「審判員にはペナルティがない」という誤った認識を持っている人も少なくはない。
罰するために競技規則を適用しているわけではなく、良い試合を作るために競技規則を適用していく。それが審判員だ。
そんな審判員のインタビューを、『サッカーダイジェストWeb』と『週刊レフェリー批評』(株式会社ダブルインフィニティ)が前編と後編に分け、隔月で連載していく。第5回は日本サッカー協会(JFA)と契約するプロフェッショナルレフェリー(PR)であり、国際審判員としても活動する木村博之氏にインタビューを行なった。
取材・文●石井紘人@targma_fbrj
――◆――◆――
――サッカーをはじめたきっかけを教えてください。
「私が育った北海道札幌市では当時、男の子は野球かサッカーをプレーしていました。兄がサッカーをやっていたこと、また同級生もサッカーをやっている人が多くて、私も小学3年生の時に地元の小学校の少年団のチームに入りました」
――どのポジションを任されていましたか?
「ここという適正はなくて、すべてのポジションをやっていましたが、そのなかでもサイドバックが多く、私自身も好きなポジションでした。ただ、小中高と道大会まで進めるかどうかのレベルでして、私自身も札幌市の選抜候補になりましたが、実際には選ばれませんでした。ただ、サッカーは好きだったので、大学進学後も、社会人チームでプレーしていました」
――その後の経歴を見ますと、大学卒業を待たずに中退し、日本郵便に入社されています。
「結果的に中退になったのですが、まずは休学し、レフェリーカレッジ卒業後に復学しようと思っていました」
――レフェリーカレッジがきっかけだったのですね。
「そうですね。大学進学したものの、勉強への目標が持てない時期でした。その時から、少年団の指導にも関わっていて、その関係で審判資格も取得していました。時代の流れもあると思うのですが、当時は北海道に20代前半のレフェリーは珍しかったのです。それもあり、レフェリーカレッジが2004年に立ち上がると、北海道の審判委員会の方々から『チャレンジしてみたら』と背中を押されました。
2002年の日韓ワールドカップで上川徹さんの活躍を見て、プロのレフェリーという道もあるのかなと考えました。レフェリーカレッジに入学したのがきっかけでレフェリーの道を本格的に目ざそうと決めました。レフェリーカレッジに入れていなかったら、何かモヤモヤしたまま、大学に通っていたかもしれません」
――前々回のインタビューで飯田淳平(国際審判員)さんにレフェリーカレッジについてお伺いしました(「凄く衝撃を受けた」レフェリーと“大人の駆け引き”が上手だった選手とは?【審判員インタビュー|第3回・飯田淳平】)が、基本、金土日は北海道から東京まで通わないといけないですよね。
「そんな事情もあり、大学を中退しました。そして、当時民営化される前の日本郵便に、契約社員というか、半ばアルバイトのような形で入社し、レフェリーカレッジを優先しながら勤務させて頂いていました」
――レフェリーカレッジに入り、JFL担当、そして全国地域サッカーチャンピオンズリーグを経て、Jリーグ担当審判員とステップアップされていきます。木村さんは、そこまでの過程で経歴を見ると大きな挫折はなかったように感じます。
「苦労がないわけではありませんが、私自身、そこまで早くステップアップしていくと思いませんでした。JFL初年度は、おそらく10試合くらいを担当したと思うのですが、アセスメントレポートもそこまで高い評価ではなかった。なので、翌年にJ2担当審判員になれると思いもせず、一歩ずつ、自分のスキルを上げていくことしか考えていませんでした。
全国地域サッカーチャンピオンズリーグの割り当てが入ってから、J2担当審判員を初めて意識したくらいです。そういった意味でも、運もあったと思いますし、当時はレフェリー界も世代交代の時期だったので、流れに乗れたのかもしれません」
――以前、お話を伺った時に、2008年J2担当レフェリーとして初めての試合となった水戸ホーリーホック対愛媛FC戦は「珍しく舞い上がっているのが分かった」、また、2011年シーズンの清水エスパルス対横浜F・マリノス戦も「上手くコントロールできていない感があった」と、おっしゃられていました。一方で、ニュースのヘッドラインとなるような試合はなかったように感じます。順当にPRになった印象です。
「どうでしょうか。ただ、PRになった1年目は大変でした。一つひとつの試合で、上手くいかないことが多いと感じていました。もちろん、試合が無茶苦茶になって、メディアに取り上げられるようになることはなかったのですが、もっとこうできたら良い、ではどうすれば良いのかと自問自答を続けていたような時期でした。
今、振り返れば、自分自身でPRなのだからと、余計なプレッシャーを感じていたのだと思います。そういった意味では、PR1年目の12年の開幕戦、ユアテックスタジアム仙台で行なわれたベガルタ仙台対鹿島アントラーズ戦は忘れられません」
――選手はPRかどうか気にしなくても、木村さんご本人が気にしていたのですね。それこそ、些細な展開に関係のないボールアウトのミスでも気にしてしまうような。そういった経験を経て、2014年に国際審判員になります。
「確か、初めて国際審判員としてレフェリーを務めたのは、韓国で行なわれた23歳以下の韓国代表対クウェート代表の国際親善試合だったと思います」
――「確か」ということは、初の国際主審はそこまでインパクトに残っていませんか?
「そうですね。その前に4th(第四の審判員)でACL(アジア・チャンピオンズリーグ)に帯同していた経験が大きいと思います。やはり親善試合よりも、ACLのほうが選手の目の色も違います。色々なインシデントも起こりますし、緊張感というか、ヒリヒリするじゃないですか。
私の国際審判員として最初の試合は、飯田さんの4thとしてシンガポールに帯同しました。ACLのプレーオフ、東南アジアのクラブ同士の一発勝負の試合で、延長戦まで行なわれた記憶があります。競った展開で、すごく激しいですし、日本では見た事のないような質の試合でした。雰囲気もJリーグとまったく違ったのも印象に残っています。
ほかにも、家本(政明:元国際主審)さんの4thとして、ACLのプレーオフ、オーストラリアのクラブとベトナムのクラブの試合に帯同したのも覚えています。この2試合が、『これが国際試合なのだ』とインパクトが残った試合です」
――東南アジアのチームだと、Jリーグよりもアバウトに縦にボールを蹴りますし、スライディングタックルも深くチャレンジしたりする。そういったサッカーの質に驚かれたのでしょうか?
「はい。あとは試合の“温度”ですかね。同じ試合でも、急に選手の温度がガラっと変わり、荒れそうになることもあります。そういう要所を、お二方はしっかりと押さえられていたので、『トップレフェリーは凄いな』という感覚を受けました」
――そこから国際審判員として、多くの試合でレフェリーを務めましたが、印象に残っている出来事はありますか?
「2016年3月に、レフェリー同士の交換プログラムでポーランドに行かせて頂きました。私はポーランド1部リーグのレフェリーを務めさせて頂いたのですが、サッカーの質や選手たちの強さ、接触プレーを物ともしないし、何とも思わない22人がフィールドにいたのです。
私はポーランドに行くまで、ファウルを見落とさずにとっていかないとゲームは上手くいかないと思っていました。ですが、実際にポーランドでレフェリーを務めた時に、選手たちはファウルっぽい接触でも気にせずプレーするのです。それを見て、じゃあレフェリングも合わせようという感覚を掴みました。
『ファウルをしっかりと見極めないと』ではなく、『選手は何を求めてプレーしているのか? レフェリーに何を求めているのか?』と考えるようになりました。それは何でもかんでもファウルをとらないわけではなく、『選手がプレーを続けたいのか? ファウルで止めてほしいのか?』という部分を深く考えて感じながらレフェリングをしなければいけないのだと強く思ったのです。1部のリーグ戦2試合、カップ戦1試合、ポーランド対フィンランドの国際Aマッチの計4試合は、私にとってすごくプラスで刺激のある経験でした」
――今、木村さんがおっしゃられたように、Jリーグでも以前はしっかりとファウルを見極めることが要求されていたと思います。近年では、エンパシーやグレーを任されるようになったというのが私見なのですが、木村さんは審判界の変化を感じられていますか?
「2016年にレイ(モンド・オリヴィエ: 現Jリーグ審判アドバイザー)さんが私たちの指導をするようになってから、確かに変わったように思います。
リーグ戦は90分ですが、その90分間にもゲームの波があります。ピッチ上の雰囲気も時間帯によって変わりますし、他にもひとつのインシデントで大きくテンションが上がることもあります。それに合わせて、レフェリーはどのような働きかけをすべきなのか? そういうゲームマネジメントという視点がJリーグ担当審判員に入ってきました。おっしゃられたことと同じような変化を私も感じています」
――そういった意味で、木村さんのポーランドでの経験はレフェリーとしてのターニングポイントですね。
「私がポーランドで体験したことと、レイさんの指導がすごく合っていたと思います。そのタイミングで、国際審判員として代表戦やACLでも上位の試合の割り当てを受けるようになり、少しずつ、今のレフェリングになってきたのだと思います」
――AFCの審判指導と日本に違いはあるのでしょうか?
「個人的な見解になりますが、AFCのほうがざっくりしているように感じています。たとえば、タックルなど著しく不正なファウルプレーの見方や分析はすごく細かく行ないますし、AFC全体での判定を考えるうえでのコンシダレーションポイント(Consideration point)は統一されています。
ただ、実際に試合でレフェリーする時の懲戒罰以外の判定やマネジメントは、レフェリー自身のパーソナリティあるいはレフェリングスタイルを表現すれば良い。
なので、当然試合の流れを重視していると思います。たとえば、試合の中のひとつの判定が受け入れられていないとします。なぜ、一見正しいと思われる判定が受け入れられていないのか。その『なぜ?』というアプローチはAFCのほうが多いように感じます」
――日本だとレフェリーの判定が合っていれば問題はないとされるし、逆にミスジャッジだと選手が受け入れていても改善ポイントとされるわけですね。個人的には、AFCのほうがしっかりとファウルを見極めなさいという指導だと思っていました。
「AFCも得点や退場に関わる判定は、慎重にシビアに分析されますが、警告にも至らないファウルやプレーに関しては、試合の流れを読みなさいという指導だと私自身は理解しています」
>>>後編に続く
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