坂本將貴や阿部勇樹、中村俊輔、北嶋秀朗――水野晃樹に影響を与えた先達の教え「いろんなことに気づかされました」
2023年07月20日 11時15分サッカーダイジェストWeb

水野晃樹(みずの・こうき)85年9月6日生、静岡県出身。千葉やセルティック、柏などで活躍してきた元日本代表アタッカー。今季からJ3いわてに新天地を求め、3年ぶりのJ復帰を果たした。(C)IWATE GRULLA MORIOKA
ジェフユナイテッド市原(現・千葉)でプロキャリアをスタートさせた2004年から、選手生活20年目を迎える水野晃樹(いわて)。今では37歳のベテランで、若い選手たちを引っ張る立場だが、自らも多くの先輩たちの薫陶を受けてきた。
水野が最初に面倒を見てもらったのは、ジェフ時代の先輩・坂本將貴。いわゆる「坂本隊長」である。
「プロ1年目から常にクルマの助手席に乗せてもらって、『プロとは何たるものか』を教えてもらったのが坂本っちゃんです。当時は縦関係があったから、自分の予定があっても『飯行くぞ』と言われたら、そっちを優先しましたね(笑)。
自分は給料9万円からプロを始めたし、メンタルケアとかいろんなサポートをしてもらった。お兄ちゃん的な感覚に近かったのかなと思います」と、水野は10代の若かりし日を述懐する。
水野の4つ年上の阿部勇樹も、大きな存在だったのは間違いない。
「ジェフの時、阿部ちゃんにピッチ上で『何でお前、喋んないんだ』って言われたことがあったんです。『喋らないってことは、自分の責任から逃げてることだからな』と。それを言われて響きましたね。
だから今はグルージャの若手に『喋らないのは責任逃れだよ』と伝えています。『言った分だけ自分もやらなきゃいけない』という話はよくしますし、それを、身を持って教えてくれたのが阿部ちゃんなんですよ」
現役時代の阿部は、メディアに対してはあまり多くを語りたがらない選手だったが、ピッチ上での指示や要求は凄まじいものがあった。だからこそ、世界的名将のイビチャ・オシム監督、日本サッカー界屈指の指揮官である岡田武史監督といった人々に絶大な信頼を寄せられた。
その一挙手一投足を目の当たりにしていた水野は、「トッププロとは自分の言ったことに責任を持てる人だ」と痛感したはず。それを30代になった今、若い人々に伝えられる環境にいることを、彼は前向きに捉えているようだ。
そして、次に出会った偉大な先輩は、2008年にセルティックで共闘した中村俊輔。中村とはオシムジャパン時代も一緒にプレーした経験があったが、スコットランドでは非常に多くの時間を共有した。
ともに単身赴任だった時期には、練習後、水野が買い出しと料理を担当し、中村を招いて夕食を摂るというのが日課になっていた。それほど公私両面で多くの経験をともにしたという。
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異国での日々を、水野が改めて振り返る
「俊さんのストイックな部分っていうのは、身近にいてものすごく学びました。今でこそ、セルティックは日本で馴染みのあるクラブになりましたけど、あの頃はまだまだ遠い存在だった。しかも、僕が行った時は中盤の選手(トーマス・グラヴェセンやエイダン・マクギーディなど)が全員MVPを取っていたし、各国代表でレギュラーを取っているレベルの選手ばかりが並んでいて、本当に難しかった。
さらに言うと、当時のスコットランドリーグは21歳以下の選手を18人の中に3人入れなきゃいけなかった。僕は当時22歳だったので、そこには入れず、なおかつベンチには各ポジション1人ずつしかバックアップとして入れないので、本当に厳しい状況でした。
雨の多いピッチを含めて、不慣れな環境に初めて移籍するわけだから、適応するにはやっぱり時間がかかる、と。監督の(ゴードン・)ストラカンもそういう考えだったので、最初はU-21チームからスタートしたんです。そんな時に僕は怪我をしてしまった。そういう時に俊さんのストイックさを見て、前向きになろうと自分に言い聞かせていましたね」
水野にしてみれば、日本代表デビューを果たし、2008年の北京五輪が目前に迫っているタイミングで、リスクを冒して日本を離れたわけだが、結果的には全てを逃すという苦い経験をすることになった。
「『五輪に出てから海外に行ったほうがいい』という意見の人が9割で、ほとんどが反対意見を言うようななかでの海外移籍だったけど、僕自身は覚悟を持って行ったし、チャレンジに対して、全然悔いはない。チャレンジをしないほうが、悔いが残っていたと思います。2005年のワールドユースに出て、世界レベルを体感した時点で、『この先、ずっと国内でやっていても成長はない』くらいの感覚を持ったので、どうしても海外に出たかった。オシムさんの『空は広い』という言葉も大きかったですけど、そこは絶対でしたね」
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プロキャリアを賭けて赴いたスコットランドで水野が苦しんでいた頃、同じようにオランダのVVVフェンロ移籍後、半年で2部降格を経験しながら1年で1部復帰し、2010年にはロシアの名門CSKAモスクワへ移籍したのが本田圭佑だ。
ワールドユースで共闘した男が2010年の南アフリカ・ワールドカップのエースに上り詰めるとは、まさかの展開だったに違いない。
「本田は当時、ビッグマウスって言われていましたけど、ビッグマウスというよりは、有言実行できていた。もちろん、大きな夢や野望を持っていて、それに対して真摯に向き合って努力し続けた結果、ああなったんじゃないかな。
やっぱりメンタルの部分では、あいつは俺らより勝っていたし、挫折を早い時期にしたからこそ、乗り越えなきゃいけない壁はたくさんあったと思う。でも自分はその時期に調子が良かったから、スコットランドへ行って、いろんな意味で初めて、ものすごく高い壁にぶつかったという感じはありましたね」
結局、水野は南アフリカW杯のタイミングで日本復帰を決断。新天地の柏レイソルでは、北嶋秀朗に出会った。柏で若い頃からエース候補と目され、大きな期待を背負いながら苦しみ続けてきた先輩FWのサッカーへの向き合い方、そして2011年のJ1制覇の原動力となった活躍を見て、水野は大いに励まされたようだ。
「キタジさんもそうですけど、本当に各チーム、各チームに凄い先輩方がいて、僕はいろんなことに気づかされました。
その後、だんだん自分の年齢が上がって、30代に近づいていくに連れて、若い選手にいくらでも成長できることを伝えたいと思うようになりました。今の若い選手は、自分から発信することが少ないので、阿部ちゃんが言っていたようにその重要性を示して行ければいいと思っています」
目の色を変えて、いわてで自分の価値を示そうとする水野。これまで出会った様々な人々から得た財産を糧に、37歳のテクニシャンは前進を続けていく構えだ。
※第2回終了(全3回)
取材・文●元川悦子(フリーライター)
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