通訳→コーチ→強化SD。「あまりない」キャリアを歩んだキム・チョンフンが語った鳥栖への感謝

通訳→コーチ→強化SD。「あまりない」キャリアを歩んだキム・チョンフンが語った鳥栖への感謝

通訳も務めていたキム・チョンフン氏は、その腕にも評判があった。(C)J.LEAGUE PHOTOS



 12月15日、鳥栖からキム・チョンフンスポーツダイレクターの退任が発表された。10年から監督通訳、コーチ、強化部と裏方と呼ばれる立場で鳥栖に尽力してきた。振り返れば、10年という歳月が経過していた。

 区切りとし、次のステージへと進むにはいい機会だった。始まりは通訳だった。選手としてもともにプレーした経験のあった尹晶煥監督に請われる形で鳥栖に戻ってきた。

「選手の通訳ということだったら恐らく断っていました。自分自身、将来的に監督を目指すという目標がありました。監督の通訳であれば、その疑似体験ができる。そう考えました。昇格やJ1での戦いなど良い時期を経験できたし、結果がついてきたことで自信にもなった」
 通訳としてのレベルは極めて高かった。練習や試合での指示、メディアとのやり取りにおいて淀みが生じることはなかった。異言語でのやり取りであるはずなのにそこにはラグもストレスも一切、なかった。

 在日韓国人の使うハングルには特有のなまりのようなものがあるという。しかし、キム・チョンフンのハングルは韓国で生まれ育った人が使うものと遜色がなかった。その背景にあったのは言葉に対する自身の感性と努力があった。

「林(彰洋/現FC東京)が加入して間もないとき、『どうして、そんなに通訳が上手なんですか?』と言われたことがあります。彼はハングルを分からない。でも、上手いと感じてくれていた。それは多分通訳の作業自体じゃなく言葉が上手く伝わっている、彼らの心に入っているからこその言葉と受け取りました。

 自分がなぜ上手くなったか。韓国の世代別代表に選ばれたときに合宿など経験して急激に上手くなった。当時、ハングルは本当に美しいと思ったし、ハングルを好きになった。好きにならないと身に入ってこない。だから、努力することができた」

 通訳として順風満帆な日々。しかし、転機は青天の霹靂で訪れた。14年8月、ユン・ジョンファン監督が突然の退任となる。ただ、この出来事はキム・チョンフンを指導者のレールに乗せることになる。

 当時、吉田恵コーチが監督に昇格。チームは外部からコーチを補てんすることはせず、キム・チョンフンが選手通訳をしながらコーチたちのサポートをすることとなった。 そして、翌年からは正式にコーチに就任する。

「元々、指導者志望だったのでクラブが尊重してくれ、チャンスをくれた。ようやくそちら側のステージに行けたという喜びもあった。トップチームのコーチに通訳からなる。あまりないケースですが準備はしてきた。クラブには感謝しかない。自分はいつまで通訳をやるのだろうかという葛藤があった。もしユンさんが退任にならなかったら通訳のレールは伸びていたかもしれない。退任によって指導者というレールに切り替わった」
 コーチとしての経験を積み重ねていくなかで16年、マッシモ・フィッカデンティ監督が就任するとアウェー遠征時、帯同しなかったメンバーの居残り練習を任されるようになった。これが貴重な経験を与えてくれた。

「居残り組を見るようになって、メンバーから漏れた選手たちのケアや、練習メニューなど細かく仕組みを作るようになってからは楽しかったし、ようやく指導する実感が湧いてきた。

 当時、メンバー外になることが多かった水野晃樹や池田圭が全体練習をこなすなかで『チョンフンの練習があったからきつくないよ』と言ってくれたことがあった。これは嬉しかったですね。自分の選手としてのキャリアがコンプレックスにはならなかった。ないものは考えてもしょうがない。

 モウリーニョさんがあそこまで行ったことには必ず理由がある。トップの選手たちには、”教える”ということが必ずしも当てはまらない。どういう言葉で伝えたら最大限にその能力を引き出せるのかを考える。自分が監督になったら自分が持っていないものはコーチに補ってもらえばいい」

 通訳として培ってきた言葉の重要性とコーチとして選手と向き合う日々。指導者として着実に研鑽を積んでいたが、18年10月、フィッカデンティ前監督の退任を機に、転機は再び、訪れた。この時、クラブから強化部への転身を打診される。

「当時、強化部があまり組織として機能できていないような状況になっていたことに不安を覚えていました。コーチでも4年くらい経過していた。このままずっと行くのか。この年齢、タイミングで強化のトップをできるのはとてつもない経験になるんじゃないか。チャレンジしたいという気持ちになった。何よりもずっとお世話になっている鳥栖を立て直したい思いだった」

 そして、強化部の一員となり、19年シーズンより強化部スポーツダイレクターに就任することになった。着手したのは育成型クラブへの土台作りだった。

「とにかく優秀で鳥栖に合った新卒選手を獲ることに注力しました。ホームやアウェーの試合後はそのまま、各地に大学生の試合を観に行きました」

 スカウト不在のため、強化部のトップでありながら現場に足を運ぶ状況だった。確かに練習場でキム・チョンフンの姿を見かけることは決して多くなかった。

 それだけ新卒獲得のために奔走していたということだろう。鳥栖は下部組織出身者を除けば、16年に筑波大から加入した三丸拡を最後に外部からの新卒獲得が途絶えていた。

「とにかくチーム内のあらゆるバランスを整えていこうと考えていた。来季から加入する、森下龍矢、林大地は3月のデンソーチャレンジ杯を見に行った時に目についたふたり。そこからアプローチをしました。ふたりとも他のクラブから話が来ていたし、状況は非常に厳しかった。

 それでも、何度か試合を観に行って監督さんとも話をしたり、本人たちともコミュニケーションを取り続けた。自分で言うのもおこがましいけど通訳をやっていた強みからか口説くのはうまかったのかもしれない。(笑)そこで通訳の経験が生きたのかと思いましたね」
 努力の甲斐もあって森下、林は鳥栖への加入が決まった。鳥栖にとって実に3年ぶりの新卒獲得だった。クラブが掲げる育成型クラブへの移行とチームバランスの是正。船出は順調だったが、キム・チョンフンの心に引っかかっていたのはチームの成績だった。

「アヤックスとの提携などを通じて、鳥栖の育成組織が近年とても伸びていたなかで、今後それをトップチームにつなげていくための計画はあったが、当然大事なのは今、目の前の結果でもあった。勝たないといけない葛藤があった。計画を立てたなかでそれでも勝つことを平行して求めてきた。しかし、チームは最終節まで残留を争うことになった。そういう意味では責任も取らないといけなかった」

 責任という言葉と向き合ったとき、このままずっと鳥栖に居続けるのか。自分の未来を考えるに至った。振り返れば鳥栖での日々は10年という長い時間が積み重なっていた。心のどこかで区切りを求めていたのかもしれない。10年という数字は決断するには切りの良い数字だった。
「この年齢であらゆるキャリアを積めたのは鳥栖というクラブ、そして竹原社長のおかげ。本当に自分を成長させてくれたし、大きくしてくれた。サポーターのみなさんにも心から感謝している。

 これからどう生かしていくか。A級まで保持している指導者ライセンスを、S級ライセンス取得を目指し、キャリアを上げていくのもひとつ。でも、いつも考えているのは、どこに行っても自分がどういう力を発揮できるのか。力を発揮できる環境なのかどうか。

 スカウト活動での成功体験もあるし、楽しさ、やりがいもあった。まったく違う畑でマネジメントのような作業で力を発揮させられるのであればそれもおもしろいかもしれない。まだ若いから他の分野を見ることもあるかもしれない。言語が好きだから英語やスペイン語も学びたいし、同時にサッカーの勉強もさらに追求したい。

 10年というのは区切りとしてはいいのかもしれない。ずっといたからこそ、いろいろなことに思いが巡る。自分の人生の分岐点だけど大きなゴールとして変わらないのは監督をやって、日本一を取ってアジア、世界で活躍すること。そのためにこれからどういうアプローチをしていくか。ただ、来年はまだ何も決まっていない」

 鳥栖での10年は幸運なめぐり合わせに恵まれた。鳥栖への感謝と得られた貴重な経験を胸にキム・チョンフンは新たなステージへと踏み出していく。

構成●サッカーダイジェストweb編集部

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