【連載・東京2020】西川潤/前編「いきなり10番を付けるなんて聞いてなかった。最初は先輩たちの目が…」

【連載・東京2020】西川潤/前編「いきなり10番を付けるなんて聞いてなかった。最初は先輩たちの目が…」

連載9回目はこの西川潤が登場。C大阪期待の高卒ルーキーだ。(C)CEREZO OSAKA



 新型コロナウイルスの影響で開催を危ぶむ声もあるとはいえ、予定通りならあと4か月後に開幕することになる東京五輪。本連載では、本大会での活躍が期待される注目株のこれまでキャリアや間近に迫った夢舞台への想いに迫る。
 
 9回目に登場するのは、スピードに乗ったドルブルと卓越したシュートセンスで違いを作る、セレッソ大阪の高卒ルーキー西川潤だ。
 
 中学2年で全国制覇を成し遂げ、桐光学園高でも3年次にインターハイ優勝を経験。世代別代表でも活躍し、同世代のトップランナーのひとりとして走り続けてきたレフティは、これまでどんなサッカー人生を歩んできたのか。
 
 前編では、サッカーを始めたきっかけや、横浜F・マリノスのジュニアユースから桐光学園高に進んだ経緯、そして高校2年生までの秘話をお届けする。
 
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――サッカーを始めたのは何歳から?

「幼稚園の年中、5歳ぐらいですね。きっかけは(3歳上の)兄の影響でした」

――サッカーにのめり込んだ理由は?

「あまり覚えてないんですけど、小学生になってクラブチームに入って、だんだんとハマっていった感じです」

――最初は青葉FCですね。このクラブに入ったのはいつ?

「小学1年生の時です。兄が入っていたチームだったので。僕が入った時には、兄はもう横浜F・マリノスのチームのほうに移っていましたけど。僕は3年生までは川崎フロンターレのスクールに通っていて、それからマリノスのスクールに変更しました」

――青葉FCと掛け持っていたんですね。小学校時代はどんな選手だった?

「低学年の時は、サイドバックだったり、ボランチだったり、いろいろなポジションをやりました。高学年になってフォワードで固定されるようになり、それからずっとアタッカーですね」

――当時好きだったチームは?

「マリノスのスクールにいたんで、やはりマリノス。それとフロンターレですね。地元なんで」

――憧れていた選手は?

「フロンターレのジュニーニョ選手ですね。ドリブルでガンガン仕掛けて、点も取れて、アシストもできて。そのプレースタイルに惹かれてました」

――小学校時代の最高成績は?

「6年生までは神奈川県大会に行くという仕組み自体がなかったんです。6年の時に初めて県大会に出て、ベスト16まで進みました」
 

――横浜のジュニアユースに入った経緯は?

「(スクールの選抜チームである)プライマリーの選抜テストには落ちたんです。なので、その下の『スペシャルクラス』というカテゴリーでプレーしていたんですが、そこからも何人かジュニアユースに上がることができたんです」 

――中学時代はどんな生活を送っていた?

「オフは週1回のみで、それ以外は放課後に練習がありました。練習場がみなとみらいにあったので、毎日1時間ぐらいかけて通ってました」

――中学時代のポジションは?

「主にサイドハーフでした」

――中学時代の最高成績は?

「中学2年の時に(日本クラブユースサッカー選手権U−15で)全国優勝しました」

――中3の時にU-15代表に選出せれています。それほどの実力があれば、横浜のユースに、上がろうと思えば上がれたのでは?

「そうですね」

――それでも、桐光学園高を選んだのはなぜ?

「兄がプレーしていたというのもありますし、選手権への憧れもありました」

――他の高校は考えなかった?

「いろいろ考えました。ただ、身近にいる兄が逞しく成長していく姿を見て、自分も桐光でプレーしたいと思い、決めました」

――ちょうどお兄さんとは入れ替わりになったわけですね。

「そうですね。3つ違うんで。兄は卒業して神奈川大学でプレーしています」
 
――正式に入学する前(3月の船橋招待)に10番を付けたそうですね。桐光学園の10番といえば中村俊輔選手(現・横浜FC)も背負った番号です。

「いきなり10番をつけるなんてまったく知らなかったんです。試合前に鈴木(勝大)監督から『10番だから』と言われて……。最初は先輩たちの目が気になりましたが、だんだんと気にせずにプレーできるようになりましたね」

――1年の時からずっとレギュラーだった?

「1年次の前期は試合に出ていたんですが、後期はほとんど出場できませんでした。インターハイ、選手権とも県大会で負けて、全国大会に出られませんでした」

――神奈川県予選を勝ち抜くのは難しい?

「ある意味、全国でやるより難しい面もありました。レベルも高いですし、桐光に対しては捨て身で来るチームも多いので。そのあたりの対応がチームとして難しかったですね」
 

――2年次のインターハイでは6ゴールを挙げて準優勝に貢献しました。西川選手の名が一気に全国区になった印象です。

「1年生の時から活躍するのを目標に高体連に進んだのに、全国大会に出られず、試合にも出場できず、本当に悔しかった。2年のインターハイが初めての全国の舞台だったので、『ここで絶対に活躍してやろう』という心構えで臨んだのが良かった。自分の良さを表現できたと思います」

――決勝の山梨学院戦ではあと一歩のところで追いつかれて、延長戦で敗れました(1−2)。

「優勝まであと一歩でしたし、自分のシュートを止められたところから持ち込まれて追いつかれたので、ものすごく悔しかったですね。ただ、それを取り返そうという気持ちで、その後は練習をしていました」

――2年次は、冬の選手権も初戦で大津に0−5の大敗でした。

「県予選を勝ち抜くのも難しいですけど、やはり全国で勝つのも大変だなと。会場(のニッパツ三ツ沢競技場)は地元の神奈川でしたし、0−5で負けたのは相当悔しかった」

――2年の秋には(19年のU-17W杯の予選を兼ねた)U−16アジア選手権で優勝。MVPにも輝きました。アジアの予選を勝ち抜いたのは、いい経験になったのでは?

「相当タフな大会で、鮮明に記憶に残ってます。一戦一戦勝ち抜くことの難しさ、重要性を痛感した大会でした」

――日本のサッカーとの違いはあった?

「レベルというより、環境がまったく違いました。日本のように、何でも環境が整っているわけではなかったので」
 
――2年の冬には、ドイツの強豪・レバークーゼンの練習にも参加しましたよね?

「向こうから、『練習に参加してみないか』という話があったんです。よく言われるようにパワーとスピードは全然違いました。あとは環境や外国人のメンタリーティーですね。『俺が俺が』と主張するところは、日本人とはまったく違いましたね」

――その時に早く海外でプレーしたいという気持ちになったのでは?

「もちろん、そう思いました。なので、自分のどういうところが通用するのかな、という感じで練習をしていました」

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 3月30日にお届けする予定の中編では、前年のリベンジを果たした高校3年次のインターハイや日本代表として臨んだ2つの世界大会について語ってもらった。

PROFILE
西川潤/にしかわ・じゅん/2002年2月21日生まれ、神奈川県出身。180センチ・70キロ。青葉FC―横浜Jrユース―桐光学園高−C大阪。キレのあるドリブルと巧みなフィニッシュワークが魅力で、高卒ナンバーワンアタッカーとの呼び声が高いルーキー。桐光学園高では1年次から10番を背負い、3年次にはインターハイで全国制覇を果たす。昨年は特別指定ながらJデビューを飾り、またU- 20ワールドカップとU-17ワールドカップに出場して世代別代表でも活躍。冬にはスペインの名門バルセロナからの関心が報じられた。

取材・文●江國 森(サッカーダイジェストWeb編集部)
 

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