【名勝負の後日談】ドーハの悲劇〜最後に蹴らせたのは贖罪なのか…? ラモス瑠偉が感じた疑問

【名勝負の後日談】ドーハの悲劇〜最後に蹴らせたのは贖罪なのか…? ラモス瑠偉が感じた疑問

最終戦の相手、イラクに対してラモスは大きな警戒心を抱いていたが……。(C) Getty Images



 歴史に残る名勝負、名シーンには興味深い後日談がある。舞台裏を知る関係者たちが明かしたあの日のエピソード、その後の顛末に迫る。(文:加部 究/スポーツライター)

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 中東は日本人にとって、そしてワールドカップは日本サッカー界にとって未知の世界だった。

 1993年10月、日本代表がカタールの首都ドーハでアメリカ・ワールドカップ最終予選を戦うことになり、JFA(日本サッカー協会)は報道陣を集めて説明会を行なった。約1年半前のダイナスティカップ(東アジア選手権=中国開催)を取材したのは2人だったそうだが、広い会議室の席はドーハに同行する報道陣で埋まった。

「現地にはほとんどレストランもないし、タクシーをつかまえるのも難しいです」
 未知の国に2週間の滞在になる。我々は手分けをしてこれでもかとばかりトランクに食料を詰め込んだ。

 この年、Jリーグが開幕し、前年にはハンス・オフトが外国人として初めて日本代表を率いることになった。サッカーを取り巻く環境は劇変した。オフトが就任して、日本代表は東アジアとアジアカップを立て続けに制し、Jリーグのスタジアムはどこも満員になった。

 しかし空前のブームの中で、延長VゴールやPK戦を含む試合を重ねる選手たちには、必然的に疲労が蓄積していった。一方僕らフリーランスの報道陣は、中継地の空港で一夜を明かし長旅の末に決戦の地に降り立つが、そこにはレストランもタクシーも溢れていた。

 後に柱谷哲二主将は振り返っている。
「全てが足りなかった。経験も技術も。ただ絶対に気持ちで負けることはなかった」

 要するに「ドーハの惜敗」は、改めて我々がそれを噛み締める機会となった。
 例えば各国の初戦を終えた段階で、すでにラモス瑠偉は気づいていた。
「イラクが強い、しかも半端ない」

 だが翌年の本大会の開催国はアメリカだった。敵対国のイラクを迎え入れたくない思惑があったのか、最も質の高いプレーを見せるチームに逆風となる笛ばかりが鳴り続けた。つまり見方を変えれば、日本が最終戦に残していた相手は最強国だった。ところが1分け1敗の崖っぷちから、宿敵韓国を下し北朝鮮にも快勝したことで期待値ばかりが高まる。そんな浮足立つムードを察知したからこそ4戦目を終えたラモスは不機嫌だった。

「まだ終わってない…」
 おそらく日本陣営は、初戦で当たるサウジアラビアを最大のライバルとして警戒していた。だから「互いにナイフを突きつけ合う試合」(オフト)をスコアレスで分けたのを無難なスタートと感じたかもしれないが、「イラクと対戦する前に決めてしまいたい」と考えていたラモスにすれば大きな誤算だったはずだ。

 確かに東アジアのライバル2ヵ国を連破して日本は上げ潮だった。ただし反面オフトは、ほとんどのスタメンを固定し、主力組はぎりぎりの戦いを続けていた。また今なら考えられないことだが、故障で起用の見込みが立たない都並敏史を現地に帯同するほどオプションを欠いていた。

 勝てば自力で本大会出場を決められる最終戦で、日本は幸先の良いスタートを切った。開始6分、長谷川健太のシュートがクロスバーを叩き、カズが頭で詰めてゴールネットを揺する。この1点でリードを保ったまま、選手たちはロッカールームに戻った。その時の興奮状態が異常で、いくらオフトが指笛を鳴らしても喧噪が収まらず、落ち着いて指示を伝えることが出来なかったという。

 後半は完全にイラクが主導権を握った。49分にヘディングシュートを決めるが、オフサイドの判定で取り消し。だが遂に58分に同点。それでも日本はラモスから中山雅史へのスルーパスが通り再び突き放す。微妙なタイミングだったが、ラモスには確信があった。「相手がオフサイドトラップをかけた瞬間に出せば、きっと旗は上がらない」

 判定に不満を募らせたイラクのサポーターは、次々にビンや缶を投げ込みゲームを中断させた。実際に試合後には、イラクのババ監督に対し、この大会でのジャッジの公平性についての質問が相次いだ。

 ラモスは、そんな空気を読み取っていたからこそラストシーンが不思議だった。試合はアディショナルタイムに入り、レフェリーはいつ笛を吹いても良かった。イラクの最後のカウンターで日本がCKに逃れた瞬間に終わらせることもできた。

〜最後に蹴らせたのは贖罪なのか…?〜
 

 しかもイラクは時間がないのに、まさかのショートコーナーを選択した。
 GK松永成立の頭越しに同点ゴールが決まる。その瞬間にベストイレブンに最多の4人が選出された日本の本大会出場が消えた。

 オフトはマツダ(サンフレッチェ広島の前身)で共にチームの基盤作りをして来た今西和男に会うと、溜息混じりに零したという。
「あのロッカールームに、おまえがいてくれたらなあ…」

 しかしドーハの反省は、3年後の成果に繋がった。アトランタ五輪への出場権を賭けた一戦で、日本陣営のスタッフはハーフタイムでロッカールームに戻って来た選手たちに速やかに水分を摂らせると、最後の5分間で西野朗監督の言葉に集中させた。後半サウジアラビアの猛攻を凌ぎ切った日本は、28年ぶりに五輪への扉を開くのだった。

取材・文●加部 究(スポーツライター)

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