【黄金の記憶】風雲児・稲本潤一はアーセナルでなにを迷い、なにを決断したのか

【黄金の記憶】風雲児・稲本潤一はアーセナルでなにを迷い、なにを決断したのか

相模原で迎えるプロ24年目のシーズン。稲本潤一はひたすら、信じる道を突き進む。(C)J.LEAGUE PHOTOS



 当サイトで好評を博した連載『黄金は色褪せない』。1999年のナイジェリア・ワールドユースで銀メダルに輝いた“黄金世代”のなかから、小野伸二、遠藤保仁、小笠原満男、稲本潤一、本山雅志の5人に登場してもらい、その華麗なるキャリアの全容に迫ったインタビューシリーズだ。

 そこで紹介した数多ある興味深いエピソードから、厳選した秘話をお届けしよう。

 今回は浪速の風雲児・イナの登場だ。ガンバ大阪アカデミーで英才教育を施され、エリート街道を歩んだ若武者は、21歳で欧州きっての強豪アーセナルの門を叩く。以降、イングランドのみならずトルコ、ドイツ、フランスのクラブを渡り歩き、2010年に30歳で日本サッカーへの復帰を果たした。

 欧州トップシーンを駆け抜けた波瀾万丈の日々。稀代のボランチはその「9年間」をどう振り返るのか。

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 2001年夏、稲本潤一は9年半を過ごしたガンバ大阪に別れを告げ、21歳で欧州行きのチャンスを掴んだ。
 
 レンタルでの移籍先はなんと、プレミアリーグの強豪アーセナル。アーセン・ヴェンゲル監督自身がコンフェデレーションズ・カップでのプレーを見初め、ラブコールを送ったのだ。言うなれば相思相愛で、誰もが明るい展望を描いた。
 
 わたしは、アーセナルのプレシーズンキャンプに同行した。ユーレイルパスを駆使して、オーストリアのグラーツからベルギーのベベレンまで。日を重ねるにつれ、稲本の表情がこわばっていったのを思い出す。なかなかトップチーム同士のテストマッチで起用されず、取材しているこちらもフラストレーションが溜まった。
 
 ベベレンは当時ベルギー・リーグ2部で、アーセナルと人材供給の提携契約を結んだばかりだった。さっそく2名の若手選手が北ロンドンからレンタルで駆り出され、武者修行がスタート。その発表会見の場で、わたしはフランス人指揮官に尋ねた。
 
「イナモトもレンタル移籍する可能性はありますか?」
 
 すると名将は一瞬にして不機嫌になり、「イナには期待している。そんな可能性などない!」と吐き捨てられた。どうしてあんなに怒ったのだろうか。

 
 しかしながら、現実は稲本にとってあまりにも酷だった。いまだから話せることもあるだろう。
 
「簡単に言えば、レベルが違った。試合にはまったく出れずで、どんどん時間だけが経って、半年くらいした頃かな。もう諦めかけてる自分がおった。そんななか、唯一の拠り所になってたのがワールドカップ。次の年にワールドカップがあるからと、それだけをモチベーションに頑張ってましたね」

 ティエリ・アンリ、デニス・ベルカンプ、ロベール・ピレス、パトリック・ヴィエラ、フレデリック・リュングベリなど、2001−2002シーズンのガンナーズ(アーセナルの愛称)には錚々たるワールドクラスが集結していた。トレーニングからして異次元の領域だったという。
 
「あまりにもレベルが違いすぎた。球回しなんて経験したことがないレベルで、パスは速くて強くて、正確。まったく獲られへん。チームでレギュラーを狙うという感覚にはなれなかった。仲が良かったのは、ブラジル人のエドゥとかコロ・トゥーレ。ベンチメンバー同士でよく一緒にいましたね」

 チャンスがゼロだったわけではない。ワーシントンカップ(リーグカップ)では2試合の出場機会を得た。だがそのパフォ―マンスが、散々なものだったのだ。
 
「ヴェンゲルには、体重管理だけはしっかりやっておけと言われてました。体重が増え始めたりしてたんで。でもリーグカップでねぇ……。プレミアのチームと対戦した時に、中盤のセンターで出たんですけど、僕がボールをかっさらわれて、そこから失点。次の瞬間には(ポジションを)サイドに回されて、前半で替えられてしまった。あれは落ち込みましたね、久しぶりに。ホンマに」
 
 アーセナルはそのシーズン、プレミアリーグとFAカップのダブル(2冠)を達成する。旧ホームスタジアムのハイバリーで、恥ずかしそうに優勝トロフィーを掲げる稲本。複雑な心境だったはずだ。
 
「みんな俺のこと知ってんのかなって思ってた。それくらい場違いな感じですよね。優勝パレードにも参加したし、いま思うとすごく貴重な経験はしたんですけど、当時は正直、はよ終わってほしいと思ってました」

 
 試合勘やコンディションを不安視されたものの、失意のシーズンを終えたあと、稲本は2002年日韓ワールドカップで躍動する。ベルギー戦とロシア戦でゴールを決め、たちまち“時のひと”となるのだ。
 
 そして彼は、1年でアーセナルを去った。新天地は西ロンドンのフルアム。プレミアリーグでの挑戦を続けたのは、稲本なりの意地もあっただろう。
 
「ワールドカップの勢いのまま行ってるから、最初から波に乗ってましたね。プレミアの舞台に絶対立ちたいと思ってたし、1年我慢してたものを思いきりぶつけられた。(ジャン)ティガナ監督が好んでたのは、中盤がダイヤモンド型の4−4−2。で、僕はトップ下。カップ戦(UEFAインタートトカップ)でハットトリックしたりとシーズン前半は調子も良かったんですけど、点が取れなくなると試合にも出れんようになったりで。自分のプレースタイルに迷ってる時期でしたね」

 フルアムでの2シーズンを終えた直後だった。
 
 ジーコジャパンの英国遠征、稲本はイングランド戦で腓骨を骨折する大怪我を負ってしまう。濃厚だったガンバからの完全移籍は叶わず、レンタル契約の更新もなし。宙ぶらりんとなった稲本は2004年8月、一時的にガンバへ籍を戻すことになる。Jリーグの夏の登録期限が迫っていたからだ。日本復帰の可能性が俄然、現実味を帯びていた。
 
 そんななか、8月27日にオファーを出してくれたのがバーミンガムの古豪、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン(WBA)だった。怪我をしているのを承知でオファーをくれたのだ。意気に感じた稲本は、熟考の末に決断する。ガンバからの完全移籍が決定した。
 
 2004−2005シーズン後半には、期限付き移籍で2部のカーディフ・シティへ。半年後に復帰したが、WBAは2005−2006シーズンに降格の憂き目に遭ってしまう。ブライアン・ロブソン監督との信頼関係は、最後まで築けないままだった。

 
 2006年8月31日。欧州の移籍マーケットがクローズされるギリギリのタイミングで、稲本はトルコの名門、ガラタサライへ移籍する。この最終日特有のドタバタ劇を当事者として経験した日本人選手は、稲本が最初だった。
 
「ブライアン・ロブソンさんに、出たいなら出てもいいぞと言われてた。そうか、必要な戦力やないんやなと。でもオファーがあったわけじゃないから、普通にリザーブの練習に行こうと家を出た。それが8月30日。練習場に着いたらコーチが家に帰れと。すると、エリック・ゲレツさんっているじゃないですか。あの方が新しくガラタサライの監督になって僕が欲しいと言ってると聞いた。直接電話がかかってきて、PSVの監督時代から興味を持ってくれてたみたいで。そっからはもうバタバタですよ」
 
 最初はそのまま30日にイスタンブール入りしてメディカルチェックを受ける予定だったが、ガラタサライ側の都合で31日にずれ込んだ。稲本獲得を決めたため、契約寸前だったポーランド人選手を帰さなければいけなくなったらしく、空港でバッティングしないよう日程をずらしたのだ。
 
 稲本はロンドンの空港で一夜を過ごし、空路イスタンブールへ。「メディカルから契約まで速攻ですよ。ホンマにギリギリのタイミング。ヨーロッパのサッカービジネスの最前線を体感した」と振り返る。
 ガラタサライは伝統と格式のある素晴らしいビッグクラブだったという。だが、トルコの国民性なのかお家芸なのか、給料未払いの悪習は容赦なく稲本をも襲った。「面白い1年間やったけど、あれはマイった。FIFAに間に入ってもらってなんとかなりましたけどね」と、苦笑いを浮かべる。
 
 その後はドイツのフランクフルトで2年、フランスのレンヌで半年を過ごした(ガンバの元監督、フレデリック・アントネッティとの再会を果たした)。「そこまでいろんな国を旅するタイプだとは思わなかったけど?」と投げかけると、「そう、そうなんよね」と頷き、こう答えた。
 
「レンタルのカーディフを入れると、ヨーロッパでは全部で7チーム。なんというか、移籍に対する考えが柔軟になっていったかな。イングランドを飛び出してガラタサライに行ったくらいから、まるで苦じゃなくなった。サッカーしてたら自然と選手とは仲良くなるし、ゲレツさんは英語を話してくれて、トルコのひとらも親切やったんでね」
 
 日本に帰る選択肢はなかったのか。その問いかけに対しては、きっぱりこう答えた。
 
「自分を必要としてくれるクラブがあるうちは、ヨーロッパにいたかった。いっかい帰ってしまうと、自分の性格的にもういっかい出るのは厳しいと思ってたから。日本やとなんでも揃ってますからね。海外でやれる環境があるのに、それを捨てる選択肢はなかった」
 
 そして2010年1月、稲本は川崎フロンターレへの完全移籍を果たす。この時、30歳。アーセナルへ旅立ったあの日から、およそ9年の歳月が流れていた。
 
文●川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

※2017年9月掲載分より抜粋、再編集。

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