【黄金の記憶】本山雅志と東福岡〜雪の決勝でなぜ彼らは、伝説の“3冠”を達成できたのか

【黄金の記憶】本山雅志と東福岡〜雪の決勝でなぜ彼らは、伝説の“3冠”を達成できたのか

一つひとつ記憶を紐解きながら、濃密な高校時代を振り返ってくれた本山(写真はインタビュー当時)。(C)Takeshi TSUTSUI



 当サイトで好評を博した連載『黄金は色褪せない』。1999年のナイジェリア・ワールドユースで銀メダルに輝いた“黄金世代”のなかから、小野伸二、遠藤保仁、小笠原満男、稲本潤一、本山雅志の5人に登場してもらい、そのフットボール哲学の全容に迫ったインタビューシリーズだ。

 そこで紹介した興味深いエピソードから、厳選した秘話をお届けしよう。

 今回は圧倒的な技巧で観る者を魅了し続けたエンターテナー、本山の出番だ。その華々しいキャリアを語るうえで欠かせないのが、濃密な東福岡高校での3年間である。数多の苦難を乗り越え、天才アタッカーはいかにして“赤い彗星”を3冠の金字塔へと導いたのか。

 雪の決勝で完結する、伝説のサクセスストーリーを紐解く。

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 1995年春、東福岡高校に入学した本山雅志は、すぐさまトップチームに引き上げられ、得意の2列目でプレーしていた。
 
 だが、インターハイ予選を前にしたある日、志波芳則監督は本山を呼び出してこう告げた。「お前、ボランチをやってみんか。やってみい」。本山はポカーンと口を開けて聞いていたという。
 
 志波監督に本山のコンバートを提案したのは、3年生の生津将司だった。同じ北九州市の出身で、入部してからというもの、弟のように本山を可愛がっていた天才肌のプレーメーカーだ。4−1−4−1システムの1ボランチは本来、生津のポジションだったが、「俺はひとつ前(シャドー)でやりたいです。本山ならできるはずだし、教えます」と直訴してきた。生津とサッカーの話をしたのは、3年間であの一度きりだったよなぁと、先生が懐かしそうに振り返る。
 
 なかなかのアイデアだ、さすがは生津だと思った。本山はシャドーでプレーしていたが、まだ線が細く身体ができていないため、圧倒的にパワーが足りなかった。ガツンとシュートが撃てず、いまのままでは上級生のディフェンダーたちに潰されるだろう。止める、蹴るの基本技術が高く、なによりピッチを俯瞰して見れる天性の“鳥の眼”がある。本人の今後を考えても有意義な経験になるはずだと信じ、名将はボランチへの配置を決めたのだ。

 
 最初は驚いた本山だが、「試合に出してもらえるならどこでもやろうと思った」と腹をくくる。
 
「前にいたのが小島(宏美)さん、山下(芳輝)さん、それに生津さんですからね。ボールを持ったらすぐに預ければ、全部やってくれました。それまであまりやってなかった守備のところを頑張って、とにかく走り回ってボールを奪い、止めて、蹴る。先輩たちの迷惑にならないようにサッカーしてましたよ。まだ怖いもの知らずというか、1年だから、勝たなきゃいけないっていうプレッシャーもなかった。だから楽しかったですねぇ。だってあの3人(小島、生津、山下)の後ろですよ?」

 ボランチでプレーし始めてまもなく、生津はやたらと居残り練習に付き合ってくれたという。本山にキック力を付けさせようと、ロングキックを何度も蹴らせた。「そういうタイプのひとじゃないはずなんですけど、どこかで罪の意識があったのかもしれない(笑)。だいぶ経ってからこういうことだったんだって聞かされました」と笑う。
 
 一方で志波監督は、本山の攻撃的なセンスを磨く機会もちゃんと与えてくれた。東福岡は夏のインターハイ本大会にエントリーしていたが、同じ時期、1年生チームにはブラジル遠征が組まれていたという。なんとトップチームのレギュラーである本山をインターハイではなく、そのブラジル遠征に参加させたのだ。
 
 攻撃的なポジションで好きなだけプレーさせてもらったという。「すごいいい経験になった。海外でプレーしてひとつの自信に繋がりましたから」と22年前の出来事を振り返り、感謝を口にする。

 ルーキーイヤーで迎えた選手権。県予選でアンカーのコツを掴んでいた本山は、本大会が開幕する頃には、東福岡に欠かせない主軸となっていた。
 
 1回戦で激突したのが、2年生の天才司令塔、中村俊輔を擁する桐光学園。抽選会で対戦が決まってから、本山にはひとつのタスクが与えられていた。思いもよらない、マンマークである。
 
「俊さんがすごい選手だってのはなんとなく知ってたけど、そこまで詳しいわけじゃなかった。で、試合ではマンマークで付けと志波先生に言われて、いいか、どこまでも付いていけと。めっちゃ走りましたよ、あの試合は。左を切って右に追い込んでいけばいいとか、右足でほとんどプレーしないとか、事前のスカウティングはそんな感じだったけど、とんでもない話で。

さっと僕が左を切るじゃないですか。前にも味方がいるから大丈夫だろうって安心してたら、あっさり逆を取られて、『あー! それだけはやめてー!』って(笑)。サイドに流れても簡単に切り返して右足でセンタリングとか上げてたし、ぜんぜんスカウティングと違うんですけど!って。ただそう思いながらも、すんげー楽しかったんですよ。巧いですから、俊さんは。それを目の前で見れて本当に面白かった。まあ、自分が勝利に貢献できたかどうかは怪しいんですけどね」

 
 2回戦で作陽を、3回戦で近大付を破り、準々決勝では前年度覇者の市立船橋をPK戦の末に下した。筆者はこの試合のマン・オブ・ザ・マッチに本山を選んでいる。式田高義や砂川誠、城定信次ら高校サッカー界のスターを擁する市船の中盤と、攻守両面で堂々と渡り合っていたからだ。しかし続く準決勝で静岡学園の後塵を拝し、ヒガシの快進撃は終わった。
 
「なんだろ、毎試合毎試合、志波先生が僕のやることを明確にしてくれるんで、すごくやりやすかったです。自分は自分で、こうサポートしたほうが前の選手が助かるんじゃないかといろいろ考えたり、探ったりしながらやってましたね。あんな風に頭を悩ませながらプレーしたのは、後にも先にもあの大会だけかもしれない。基本が大事なんだって再確認できたんです。どうすればゲームが流れていくのかが、ボランチをやってみてよく分かった。あれは本当に大きな経験だったし、のちのちの自分のプレーにもすごく活かされましたね。

 いちばん覚えてるのは……やっぱり市船戦かな。最後のPKキッカーが僕で、決めて勝ったのをよく覚えてます。静学に負けたのってPK戦でしたっけ? これがあんまり思い出せないんですよねぇ」

 高校時代、本山には志波先生と並ぶ恩師がいた。かつて八幡製鉄サッカー部で監督を務め、全国有数の強豪に鍛え上げた人物、寺西忠成さんだ。この時、60代後半。すでに第一線の指導から退き、週に1〜2回だけやってきては、東福岡の選手たちに極意を伝授していた。
 
 とりわけ本山は、才能に惚れ込まれたのか、つねに傍に置かれて指導を受けたという。八幡製鉄サッカー部は北九州市を本拠地とし、九州サッカーの礎を築いた伝説のチーム。北九州がサッカーどころなのもそこに起源があり、寺西さんは自身も暮らす北九州の出身である本山を、ことのほか気にかけていたのだ。本人も心酔しきっていたと語る。
 
「すんごい細かい局面の話とか、なにを質問してもすぐに明確な答をしてくれるんです。1ボランチなら1対2になった時にどうやって守るか、どうやって遅らせるか。個と個の駆け引きのところとかもたくさん教えてもらった。誰かが、寺西さんに『パスが通らない』って言ったんですよ。したら、『パスなんてボール1個あれば通るんだよ』と言って、ふたつのコーンのすごい狭い間をこれでもかってくらい通す練習をさせられた。シンプルだけど、確実に身に付く練習でしたね。

 寺西さんは車で北九州を往復してたんですよ。で、いつも助手席に座らされるのが僕で、理由は『寝ちゃうから話し相手になってくれ』(笑)。そこでもサッカーの話ばっかりしてましたね。タメになる話ばっかり。寺西さんとの出会いは途轍もなくデカかったんです」
 
 九州サッカー界のレジェンドは1999年1月14日、東福岡の選手権連覇を見届け、他界した。享年72。

 
 選手権で一躍脚光を浴びた東福岡だったが、本山の2年時は受難のシーズンを送る。主軸だった3年生が抜けた穴は想像以上に大きく、守備の要である3年生の古賀正紘は、アンダー世代の代表の活動で留守がちだった。そしてなにより、本山自身が厄介な持病を発症してしまう。プロになってからも彼を悩ませ続けた、椎間板ヘルニアである。
 
「試合に出るメンバーは3年生が少なくて、どちらかというと1、2年生が主体。でも飛び抜けて守備面で頼り切ってた古賀さんが代表で忙しくて、なかなかチームとしてまとまっていけなかったんですよね。インターハイは予選で負けて、全日本ユースは準優勝したんだけど、決勝で鹿実(鹿児島実)にボロ負け(1−5)。そして僕は国体で腰を傷めてしまった。選手権も県で負けてしまって、なにも残せないまま終わった1年でしたね」
 
 新チームが発足してからも、本山は部分合流しか果たせないでいた。ようやく新人戦の途中から出場できるようになったが、高校サッカーでよくある1日・3試合などのハードメニューはもはやこなせず、春のフェスティバルでも1日・1試合の限定起用が続いた。
 
「当時はまだ内視鏡手術とか技術が進歩してなかったんで、ヘルニアを治すには開腹手術しかなかった。それは嫌だったんで、だましだましのまま1年を過ごしました」
 
 栄光に彩られる3冠ストーリーにあって、本山は笑顔の陰で深刻な持病と戦っていたのだ。

 高校サッカー界に燦然と輝く金字塔、トリプルクラウン(3冠)。“赤い彗星”こと東福岡が、1997年度に成し遂げた偉業で、インターハイ、全日本ユース(高円宮杯プレミアリーグの前身)、そして選手権を総なめにした。公式戦49勝2分けの無敗。怪物のようなチームである。
 
 前年度はインターハイ、選手権とともに県予選で敗れるなど、苦杯を舐め続けたが、決して無駄な1年とはしなかった。1年生の宮原裕司、金古聖司、千代反田充らがもがき苦しみながらも飛躍的な成長を遂げ、選手権予選の頃には上級生たちを突き上げるほどの存在になっていたのだ。
 
 本山は、こう振り返る。
 
「チームが新しくなってから、僕は腰の痛みもあって最初は出れなかったんですけど、もう形がしっかりできてる感じはあったし、県じゃもう負けられないぞってプレッシャーが半端なかった。49勝2分けですか。すごいっすよね。でもずーっと張りつめてたかと言うとそうではない。抜くところはしっかり抜いたりしてましたから(笑)」

 
 春のフェスティバルや練習試合では、公式戦とは異なり、「マジで弱かった」という。
 
 船橋招待フェスティバルでのひと駒だ。東福岡は埼玉の強豪・武南と戦った。バスが遅れて試合直前の到着となり、なんとか選手たちはキックオフに間に合ったが、志波監督はまだ姿を現わしていなかった。それで気を抜いたわけではないのだろうが、東福岡はずるずると失点を重ねていった。
 
「相手はBチームなんですよ。それでもボコボコにされてヤバかったですね。1点、2点と取られて、おいおい先生来るまでに同点にはしとかなきゃだぞとか言ってたんだけど、気づいたら7点くらい取られてて(笑)。したら先生が現れて、それはもうえらいことになりましたよ。『おい、手島(和希)、もういい、出ろ!』とか烈火のごとく怒ってて。あれは大変でしたけど、練習試合はそんな感じでしたね。なんだヒガシ、大したことないじゃんって思われてたんじゃないですか、最初は」
 
 だが、県内では絶対に負けられないという強い自負が、彼らの根底にあった。その潜在的な意識と重圧が、どんな試合でも打ち勝つ、破壊的な攻撃力を誇るチームへと変貌させていったのだ。
 
「公式戦になった時の切り替えはしっかりできてましたね。強かった。周囲の目がすごくてプレッシャーは相当なもの。その中で絶対に結果を出すぞ、こんなのに屈しないぞっていう想いを共有していた。で、ヒガシのいいところなんですけど、昔からあまり上下関係が厳しくないんですよ。ざっくばらんに先輩後輩で話をよくしたし、試合中もしょっちゅう意見交換をしてましたから。勝ちパターンみたいなのも掴んでいったし、ちょっとやそっとじゃ負ける気がしなかったですね」

 酷暑の京都開催となったインターハイは、決勝で帝京を相手に4−3の逆転勝ちを収めた。続く全日本ユースも接戦をモノにしながら勝ち上がり、決勝で小野伸二を擁する清水商に3−2の僅差勝ち。スコアだけを見るとぎりぎりで拾った印象があるが、実際は豪快なガブリ寄りだった。

 左サイドの古賀誠史が放つパワフルショット、本山と宮原による鋭い2列目からの抜け出し、金古と千代反田の高さがモノを言うリスタート。そのいずれもが図抜けた質と精度を持ち、まさにどこからでもいつでも点が取れた。
 
「撃ち合いになったら負けない自信はありましたよ。1点を守り切るみたいなやり方はしてなかったし、攻めてナンボのチームだったんで。まあでも、帝京も清商もかなり強かったですけどね。いま思えば、よく勝てたなって試合はけっこうありますよ」
 
 ひとつ訊いてみたかった。49勝2分けという3冠の一年間で、いちばん厳しかった試合はどれか? すると本山は即答で、選手権・県予選のある試合を挙げたのだ。
 
「2回戦の福岡大大濠戦。あれが最大のピンチでしたよね。3冠を意識していたわけじゃなくて、それは県予選を勝ち抜いてから、本大会に行ってからだよなってみんなで話をしてたんです。でもなんでだろ、予選の初戦というプレッシャーからか、すごく全体の動きが硬くてまるで本来のサッカーができなかった。重圧があったのかもしれない。やばい、やられる。シュートを撃ってもまるで入らなかったですから。けっこうな時間まで0−2で、なんとか追いついて延長戦に入って、突き放して……。結果的に、あれを乗り越えられたのが大きかった」
 
 選手権本大会ではむしろ、リラックスして戦えたという。
 
「志波先生は、とりあえず1試合1試合だぞって言ってくれてて、これはやり切らないともったいないって思ってました。選手権って、そういう場所なんですよね。とくに3年の時にそう感じたかな。勝っても負けても最後だから、逆に思い切ったいいパフォーマンスができる。少なくとも僕らはそうだったし、周りが考えているほどプレッシャーは感じてませんでしたね。

 ただ、俺はけっこう先生に怒られてた。初戦(1回戦の富山一戦で5−0の勝利)は結果的に大量リードで勝てたんだけど、僕はPKを外してて、試合後にすんごい説教されました。そのほかの試合でも『お前その程度のプレーしかできないのにプロに行くのか』って。要所要所で先生が締めてくれてたんですよね」

 
 そして1998年1月8日、迎えたカナリア軍団との雪の決勝だ。インターハイと選手権の決勝が同一カードとなるのは初で、夏の王者は冬に勝てないというジンクスが27年間続いていた。
 
 本山は試合前、こんな風に感じていたという。
 
「チームとしては帝京のほうが夏より上積みがあった印象で、普通に雪じゃなくて戦ってたら、帝京が勝ってたかもしれない。それくらい強かった。コウジ(中田浩二。当時の帝京のキャプテン)とも話すんですけどね。うちはキジ(木島良輔。帝京の10番)が本当に苦手で、金古もチヨ(千代反田)もあのドリブルにチンチンにされてましたから。雪はヒガシに味方したのかなって」
 
 先制点を奪ったのは帝京だった。前半21分、中田からの一本のロングパスに呼応し、金杉伸二がGKと競いながら頭でねじ込んだ。本山は「志波先生がいちばん警戒していた形でやられた。でもあれで逆に開き直れた部分があった」と語る。東福岡はその3分後、古賀に代わって左サイドで先発した榎下貴三が同点弾を決めた。
 
 そして後半頭から、志波監督は勝負に出る。1トップの寺戸良平に代えて青柳雅裕を投入。その青柳をトップ下に置き、代わって本山を1トップに配するお決まりパターンだ。これによって大抵のチームディフェンスは混乱に陥る。分かっていても本山の動きに翻弄されてマークが集中し、フリーになる青柳や宮原に得点機が生まれるのだ。
 
 決勝点は本山のパスから、裏に抜け出した青柳が決めた。してやったりの逆転劇だ。
 
「凡試合ですよ、世紀の凡試合(笑)。タイムアップの瞬間は、ああすごいことをやったんだな、俺たちがやったんだなって感動はしたけど、どちらかというホッとした安堵のほうが大きかったかもしれない。僕の場合、それもつかの間の感じで、さあこれからプロだぞっていう、次に向かう緊張感が襲ってきた。なんか雪の中で、いろんな気持ちが入り乱れてましたね」
 
 黒のベンチコートを身に纏い、緑の優勝旗を掲げる。寒さで鼻は真っ赤だ。
 
 18歳の本山雅志はただただ、笑っていた。
 
取材・文●川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

※2017年11月掲載分より抜粋、再編集。

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