カズ落選、アトランタ世代の台頭…井原正巳はW杯初出場チームをどうまとめ上げたのか?【日本代表キャプテンの系譜】

カズ落選、アトランタ世代の台頭…井原正巳はW杯初出場チームをどうまとめ上げたのか?【日本代表キャプテンの系譜】

フランスW杯の日本代表でキャプテンを務めた井原。自身も怪我を抱えつつも、チームをまとめ上げた。(C) Getty Images



 98年フランス大会から6度のワールドカップに出場している日本代表。チーム状態も結果も大会ごとに異なるが、全世界が注目し、プレッシャーのかかる大会でチームを力強くけん引したのがキャプテンの存在だ。井原正巳(柏ヘッドコーチ)をはじめ、森岡隆三(解説者)、宮本恒靖(ガンバ大阪監督)、長谷部誠(フランクフルト)と過去4人が大役を務めているが、それぞれ困難や苦境に直面し、自分なりのアプローチで解決策を見出してきた。それぞれのチームにおける歴代キャプテンのスタンスや哲学、考え方をここで今一度、振り返っておきたい。

――◆――◆――

「外れるのはカズ、三浦カズ」
 日本代表が史上初の98年フランス・ワールドカップに挑もうとしていた約10日前の98年6月2日。岡田武史監督(現FC今治代表)は直前合宿地のスイス・ニヨンで開いた青空会見で、三浦知良(横浜FC)、北澤豪(日本サッカー協会理事)、市川大祐(清水アカデミーコーチ)の3人を最終登録メンバーから外すことを明らかにした。

 日本中が騒然となった一大事を誰よりも重く受け止めていたのが、キャプテン・井原正巳だった。「ドーハの悲劇」をともに味わったカズ、北澤という盟友がチームを離れるなか、未知なる強敵に立ち向わなければならないのは大きな不安がつきまとう。しかも、この時点で海外リーグ経験者はカズ1人。当時世界最高峰と言われたセリエAでの国際経験値を持つ人間がいなくなることは、ダメージ以外の何物でもなかった。

「今、ここにいるメンバーで戦うしかない。カズさんたちの落選のことは喋りたくない」と本人は気丈に振舞っていたものの、重苦しいムードに包まれた同日夕方の練習で膝を負傷。本大会出場が危ぶまれる状態に陥った。怪我を抱えながら、チームの動揺を収束させ、一体感を高めていく作業は想像を絶するほどの困難だ。ワールドカップ初参戦を目前にした代表チームにおいて、キャプテンは嵐の中にいた。

「カズさんたちが外れたうえ、自分も怪我をしてしまい『本当にどうなるのか』という思いはありました。ただ、キャプテンという立場上、それを引きずってはいけないし、初戦・アルゼンチン戦が迫るなか、チーム一丸となって戦うしかない。パワーをそちらに振り向けることに集中しました」

 岡田監督からも「しっかりチームをまとめてくれ」と声をかけられた井原は「監督の決断に従うのが選手。全てを受け入れてやるしかない」と腹をくくった。とにかく冷静さを保ち、仲間を動揺させず、チームをギクシャクさせないことを最優先に考えて行動しようと心掛けたのだ。
 

 当時のチームを見てみると、井原、中山雅史(沼津)の「ドーハ組」ら30代を頂点に、山口素弘(名古屋アカデミーダイレクター)、相馬直樹(鹿島コーチ)、名波浩(解説者)ら「20代後半世代」、川口能活(日本協会アスリート委員長)や城彰二(解説者)、中田英寿ら「アトランタ世代」、さらにその下に最年少18歳の小野伸二(琉球)という年齢構成。それを41歳の青年指揮官である岡田監督が束ねるという形だった。

 このうちアトランタ世代だけは五輪で国際舞台を経験。「マイアミの奇跡」などの修羅場を経て、世界トップの老獪さや鋭さを肌で感じていた。「僕らアトランタ世代は『自分たちが日本の歴史を変えてきた』という自負があった。フランス・ワールドカップアジア最終予選の頃は『俺らの方が上の世代より強い』と考えていたし、『なぜ俺らを使わないのか』とつねに思っていた」と城も鼻息を荒くしていたことがあるが、伸び盛りで勢いに乗る彼らの存在は、当時の岡田ジャパンにとって極めて重要だった。

 アトランタ世代の能力と経験値を最大限発揮してもらわなければ、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカという難敵には立ち向かえない……。現実をよく理解していた井原は、年下の選手たちを上から押さえつけるようなことは一切しなかった。自らがリハビリに勤しんでいた大会直前も周りの行動を黙って見守り、自主性を尊重し、若い選手たちの背中を押すような雰囲気を作っていた。カズ落選の難局を乗り切るためにも、個性の強い中田や川口が言いたいことを言える風通しのいい環境が必要だという認識があって、彼はそういったスタンスを取り続けたのだろう。

 加えて、当時のチームは本番前の短期間で4バックから3バックへの布陣変更を完成させなければならなかった。アルゼンチンのバティストゥータとクラウディオ・ロペス、クロアチアのシュケルとスタニッチという強力2トップを封じるためには、3枚のDFを置いた方がいいという判断があったからだ。そんな中、井原はリベロとして中西永輔(四日市TD)と秋田豊(盛岡監督)の両ストッパーを確実に統率するという大仕事を託されていた。初戦直前に怪我をしたのは誤算以外の何物でもなかったが、ピッチ内外で仲間と意思疎通を重ね、連係構築に力を注ぎ、ギリギリのところで実戦復帰。なんとか本番を迎えることができたのだ。
 

 6月14日のトゥールーズでの初戦。日本はアルゼンチンに善戦しながら、バティストゥータのシュートが名波の足に当たって入るという不運もあって0-1の苦杯。いきなり土俵際に追い込まれた。巻き返しを図るべく臨んだ20日の第2戦・クロアチア戦(ナント)も、一瞬のカウンターから繰り出されたシュケルの一撃に屈し、早くもグループリーグ敗退が決まってしまう。26日の最終戦・ジャマイカ戦(リヨン)も落とし、3戦全敗。岡田ジャパンは世界のレベルの高さを嫌と言うほど思い知らされることになった。

 この頃の日本の立ち位置を考えれば、惨敗もやむを得ないかもしれない。それでも彼らは最後まで崩れることなく、一体感を持って戦い続けた。急造3バックも機能し、大きく破綻することはなかった。そんな粘り強い集団になれたのも、つねに真摯な姿勢を押し出し、ひたむきにチームと向き合い続けた井原キャプテンの存在があってこそだった。

「結果は出ませんでしたけど、初めての大会でやろうとしていたことはある程度、できたと思います。その時点の日本が持っていた力も出せたのかなと感じますね」と本人も清々しい表情で話したことがある。

 キャプテンの形は多種多様だ。ドーハの悲劇の柱谷哲二(解説者)やブラジル代表を統率したドゥンガのような闘将タイプもいれば、2006年ドイツ・ワールドカップの日本代表を牽引した宮本のような頭脳派もいる。98年フランス大会のような混とんとした状況の中では、井原のような「冷静で寡黙なリーダー」が存在感を発揮した。日本のワールドカップ史を語るうえで、それは忘れてはならないひとつの大きな事実と言っていい。(文中敬称略)

取材・文●元川悦子(フリーライター)

関連記事(外部サイト)