「警察の厄介にも…」英記者が14年越しに明かした、スコットランド代表の“嬉し恥ずかし日本滞在記”

「警察の厄介にも…」英記者が14年越しに明かした、スコットランド代表の“嬉し恥ずかし日本滞在記”

2006年のキリンカップで加地と競り合うマクローチ。日本のファンに「ロックスターのように見られていた」と振り返る。(C)Getty Images



 日本代表が海外のチームと対戦できる貴重な機会に、キリンカップサッカーがある。

 日本サッカーがまだアマチュアだった時代、1978年にジャパンカップとして始まり、ジャパンカップキリンワールドサッカーを経て、1985年に現在の名称となった。1992年からは代表チーム同士が対戦する大会となり、日本代表が世界の強豪を迎え撃った。かつてはほぼ毎年行なわれていたイベントだったが、2016年を最後に開催されていない。

 この大会に1995年と2006年の2度、出場しているのがスコットランド代表だ。前者では日本と0−0で引き分けたあと、エクアドルを相手に2−1の勝利。日本と勝点4で並びながら、得失点差で2位に甘んじた。そして後者ではブルガリアに5−1と大勝し、日本とスコアレスドローで優勝カップを手にしている。この2006年の大会について、英公共放送『BBC SPORT SCOTLAND』のリチャード・ウィントン記者が公式サイトに回顧録を掲載した。いまだからこそ語れるような内容だ。

 
 大会開催は5月9〜13日。埼玉スタジアム2002でジーコ監督率いる日本と引き分けて優勝を決めた選手たちは、まずロッカールームに戻り、冠スポンサーのビールで祝杯を挙げる。その夜はウォルター・スミス監督も、帰国のため空港に向かう翌朝のバスに間に合うようにと申し渡し、外出許可を出した。何人かは「(テレビで)FAカップ決勝のリバプール対ウェストハムを観て、食事をしながらビールで一杯やろうと」(ガリー・コールドウェル、ハイバーニアン所属/当時)バーへ。さらに地下のナイトクラブへと河岸(かし)を変え、スコットランド・ファンも合流してどんちゃん騒ぎ。

「正直、まともじゃなかった」と思い起こすのはリー・ミラー(ウォルバーハンプトン所属/当時)。たがが外れた選手たちは街へと繰り出し、歌って踊りながら通りを練り歩く。ある選手はタクシーのボンネットに上がって騒いだため、警察の厄介となり、保釈金を払って解放されたという。

 なお、ウィントン記者は「誰もその選手が誰なのかを明かさない」と書いている。こうした出来事などがあって、スミス監督ににらまれながらも、バスは定刻8時を過ぎて出発した。選手たちのテンションは、車内でも収まらない。マッサーをそそのかし、座席で爆睡するジェームズ・マクファデン(エバートン所属/当時)の額になんと男性器の落書き。マクファデンは空港に到着してもそれに気づかず、ファンが求めるサインに応じていたという。

 日本代表はこのスコットランド戦後、FIFAワールドカップ出場のため、ドイツに向けて出発した。

 一方、スコットランドは同大会の欧州予選でイタリア、ノルウェーに次ぐ3位に終わり、前年秋に出場権を逃していた。つまり、このキリンカップがシーズン最後の試合。長いシーズンが終わり、遠い外国で緊張の糸が一気に緩んだのだろう。この時期に来日する欧州チームは長らく、シーズン後の「慰安旅行」に来ると陰口をたたかれていた。もっとも、そんな相手に日本はなかなか勝てない時代が続いたのだが。

 ウィントン記者が伝えているのは、選手たちのこうした破天荒な物語だけではない。初めての緑茶、ホテルの高層階へ向かう外が見えるガラス張りのエレベーター、トイレの温水洗浄便座など、選手たちのプチ日本体験にも触れている。

 そして、日本人ファンの歓迎ぶり。数は少ないものの、どこへ行ってもフォローしてくるファンがいて、その名前を連呼されたリー・マクローチ(ウィガン/当時)は「地元でも気付かれないのに。フットボーラーじゃなく、ロックスターのように見られていた」と振り返った。

 すでに下降線をたどりつつあった古豪スコットランドの極東への小さな旅。いまから14年前の優勝について「ミッキーマウスのカップ(ほどの価値しかない)と言うひとがいることも知っている」とマクローチ。「それでも国際大会で優勝した唯一のスコットランド代表だ。タイトルの大小は関係ない」と誇らしい思い出となっている。

文●石川 聡

[編集部・注]1884〜1984年の期間に英国系4協会(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド→北アイルランド)の代表チームが競う「ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ」が行なわれていた。スコットランドは同大会での優勝歴がある。出場選手には代表キャップが与えられるなど現在の国際Aマッチの扱いだったが、英国籍選手同士の試合ということもあり、地域対抗の色彩が濃かった。

関連記事(外部サイト)