「多くの方がピッチ内外でアシストしてくれた」元日本代表FW永島昭浩氏が語る“最後のVゴール”

「多くの方がピッチ内外でアシストしてくれた」元日本代表FW永島昭浩氏が語る“最後のVゴール”

“ミスター神戸”の永島氏が引退試合についてのエピソードを語ってくれた。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト写真部)



 コロナ禍の影響でJリーグは依然として中断が続き、まだ再開の目途は立っていない。そんななか、試合が見られずに退屈しているファンのために、「DAZN」では「Re-Live」と称して過去の名勝負を放送中だ。現在配信中の自身の引退試合(2000年のJ1セカンドステージ最終節:神戸vs京都)で解説を務めた“ミスター神戸”こと永島昭浩氏に、ヴィッセル移籍の経緯、引退を決断した理由、そしてラストマッチのエピソードなどを伺った。

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――Jリーグ開幕して1年でガンバ大阪から清水エスパルスへ移籍した理由は?

「まだノンプロ時代の昭和58年に松下電器に入社して、『いつかこのチームを世界一のプロチームに』という思いでやっていました。Jリーグが開幕した時には、その後まさか自分がガンバから移籍するなんて、思ってもみませんでした。ただ、エスパルスが熱心に誘ってくれて、自分もまだ若かったので、新たな挑戦のほうに魅力を感じました。いま振り返ると、カズ(三浦知良)と一緒に露出をして、Jリーグを盛り上げていく立場だったので、リーグ全体のことを考えていれば、移籍はしなかったかもしれません。自分の事だけを考えて決断してしまい、若気の至りでした」

――清水で2年目の1995年シーズン途中に当時JFL(2部相当)の神戸へ。スター選手が下部リーグへ移籍することに、驚く声も少なくありませんでした。

「ヴィッセルは95年の1月に発足したんですが、実はそれに合わせてオファーをいただいていたんです。新しいチームを作りたいので力を貸してほしいと。故郷の神戸のチームだったので、個人的には前向きだったのですが、エスパルスはJFLのチームに出すわけにはいかないということで、一度お断りしたんです。ただその後、ヴィッセルの始動日でもあった1月17日に阪神大震災が起きた。僕の実家も全壊しました。幸い両親は無事だったんですが、ボランティアなどを経験する中で、自分は他に何が出来るんだろうとずっと考えていました」
 
――それで移籍を決断したわけですね。

「エスパルスでの2年目がスタートしていたんですが、ヴィッセルはスポンサーのダイエーが撤退し、どうなるのだろうと気になっていました。それでも、Jリーグ入りを目指して頑張るという話を聞いて、ヴィッセル関係者の覚悟を感じました。そして、再度オファーをいただき、エスパルスも『永島の意志に任せる』と言ってくれたので、移籍を決断しました。周りが言うほど、下のカテゴリーでプレーすることに抵抗はなかったですね」

――年俸も大幅に下がったのでは?

「まずガンバからエスパルスに移籍する時、実は当時のエスパルスの社長が大阪まで来ていただき、『いまの年俸の2倍を出す』と言ってくれたんです。ただ、『お金で移籍した』と言われるには嫌でしたし、自分の生き方としも違うと思ったので、『ガンバと同じで構わない』とお断りしました。なので、ヴィッセルに行く時も条件面は二の次でした」
 

――実際に移籍してみて、神戸はどんなチームでしたか?

「当時はまだ練習場がなかったんです。練習が終わった時に『明日はここでやります』というのが日常茶飯事で、公園や学校の校庭を借りてやっていました。もちろん、ロッカールームもシャワーもないし、階段などで着替えてましたね。でも、全く苦じゃなかった」

――それはなぜですか?

「エスパルス時代も、マイクロバスで1時間ぐらいかけて河川敷に行って、練習する時があったんです。雨の日なんてドロドロになるんですが、シャワーはないので、そのままバスに乗って。エスパルスも新しいチームだったんで、そういう事情の中で、スタッフの方が本当に一生懸命やってくれていた。それを経験していましたし、ましてや震災でもっと大変な思いをしている人のことを考えれば、全く問題なかったですね」

――サッカーのレベルとしては?

「加入当初は、思うように成績は残せませんでした。練習環境とかを言い訳にする選手の話も耳にしたので、いい状況とは言えなかった。ただ、良い選手が揃ってましたし、外国籍選手もレベルも高かった。噛み合えば上手くいくんじゃないかなという思いはありました」
 
――エースとして2年でJリーグに昇格させました。

「有難かったのは、移籍1年目に左足を故障したんですが、クラブが早々に手術をさせてくれたんです。途中でJリーグ昇格が難しくなり、無理せずに新シーズンに万全な形でJリーグを目ざそうと言ってくれて。エネルギーを貯められる時間が作れて、2年目に昇格に貢献できたんだと思います」

――昇格して4シーズンで現役を引退されました。決断した理由は?

「右肩の鎖骨を折ったのが大きいですね。3度も手術をしたので、病室で色々考える時間があって、『なぜこうなったんだ』『なぜ3回も手術したんだ』と考えて時、肩を叩かれたのかなという風に解釈しました。有難いことにクラブは、肩を叩くようなことはしない、という雰囲気でした。神戸で10歳からサッカーを始めて、12歳の時に初めて日本代表になるという夢を掲げて、ずっとやってきました。36歳まで、再び日本代表に選ばれるのを目標にプレーしてきて、夢じゃないことを目標に現役を続けるのは違うなと」
 

――引退を伝えた時のご家族の反応は?

「事後報告だったんですが、妻は『パパの意見を尊重する』と言ってくれて、受け入れてくれました」

――娘の優美さん(現フジテレビアナウンサー)も引退は分かってた?

「引退試合の前日に娘と息子からそれぞれ手紙をもらいました。ホームゲームは家族みんなで応援に来てくれていました」

――2000年当時のヴィッセルはどんなチームでしたか?

「ゼロからのチーム作りで、良い選手が多くいましたが、チーム作りには多少時間がかかると思っていました。バクスター監督の手腕が大きかったと思います」
 
――どんな気持ちで引退試合に臨んだのですか?

「自分が経験してきた試合に対する臨み方を最後まで貫こうと思っていました。特別に何かをしようということではなく、普段通りの気持ちで、いつも通りのプレーをしようと思って臨みました」

――これまでのキャリアを振り返るような場面はありましたか?

「現役中はあまり考えないようにしてましたね。最終試合に臨むにあたっても、今までのことよりも、新たな1ゴールを決めることが、僕に求められた最大のミッションだと思っていました」

――対戦相手の京都は、カズ選手、松井大輔選手、遠藤保仁選手、パク・チソン選手など豪華メンバーでした。

「相手はあまり意識していませんでした。カズとは代表で同部屋だったりして、いろいろ思い出があったんですが、とにかく最後の試合というのは意識せずに、普段通りやろうと思っていました。途中出場した時は、いつも通りにカズと声を掛け合いました。松井選手、遠藤選手、パク・チソン選手と本当に豪華でした」

――そのカズ選手に同点ゴールを決められ、1-1で出番がきました。

「そもそも出してもらえるのかな、と思っていました。試合を見ながら、『いつも通りに』というのを何回も言い聞かしていましたね。後半の途中から、良いタイミングで出してもらえたんじゃないかな」

――そして、延長戦でVゴール。これほど劇的な引退試合もなかなか思い浮かびません。

「決めた後、ゴール裏のスタンドに走って行ったんですが、あんなことをしたのは、最初で最後だと思いますね。決めたらそうしようと思っていたわけではありません。ちょうどヴィッセルのサポーター側で決めれたので、自然と身体が向かっていました。いま映像を見返すと、そこまで大げさに喜ばなくても、と思うんですが(笑)。サポーターに感謝の気持ちを伝えたかったんだと思います。本当に神様がプレゼントしてくれたゴールだと思いますね」
 

――試合後のセレモニーの時の心境は?

「話をまとめないといけないと思い、前の晩に紙に書いて、妻の前でリハーサルをしたんです。『そこはこういう言い方のほうがいいんじゃない?』とか訂正してくれて。試合が終わって、いざセレモニーが始めると、まずお世話になっていたアシックスの鬼塚会長がスピーチをしてくれました。鬼塚会長の話に感動し、自分の番がきて、「やばいぞ」と思いつつも、軌道修正しながら意外と冷静に、感謝の気持ちを伝えることができたと思います。当時はまだ“噛んで”なかったと思いますよ(笑)」

――カズ選手からはどんな言葉を掛けられましたか?

「あまり覚えてないんですよね。『ご苦労様』って言ってくれたのは記憶しています。セレモニーでカズが出てくるなんて、全然知らなかったんですよね。いまでも申し訳ないと思うのは、カズがわざわざユニホームを脱いで渡してくれたのに、余裕がなくて、僕のシャツを渡さなかったんです。カズを裸で帰したのはまずかったなぁ」

――現役生活で印象に残っているゴールは?

「まず、ガンバでは(Jリーグで日本人初の)ハットトリックですね。それが神戸のユニバー記念競技場だったのも何かの縁ですかね。とくに3点目をよく覚えています。エスパルスでは移籍して最初の開幕戦で挙げた決勝点。そして、ヴィッセルではやはり最後のVゴールです。全てのゴールは、ピッチ内外でアシストしていただいた方たちのおかげです」

取材・文●江國 森(サッカーダイジェストWeb編集部)
協力●DAZN
 

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