27年前の5月16日、Jリーグ初のハットトリックはこうして生まれた【名勝負の後日談】

27年前の5月16日、Jリーグ初のハットトリックはこうして生まれた【名勝負の後日談】

鹿島で初めて10番を背負ったジーコ。Jリーグでは初のハットトリックを達成した。写真:サッカーダイジェスト



 歴史に残る名勝負、名シーンには興味深い後日談がある。舞台裏を知る関係者たちが明かしたあの日のエピソード、その後の顛末に迫る。今回はJリーグ元年となった1993年の開幕戦、鹿島アントラーズのジーコが達成したリーグ初のハットトリックとそこへ至るストーリーを紐解く(文:加部 究/スポーツライター)

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 1993年5月16日、鹿島スタジアムのピッチ上で柔らかい笑みを湛えて握手をかわすふたりのスーパースターの明暗は、まだ誰にも見えていなかった。もちろんこの小さな街で誕生した鹿島アントラーズが、29冠(※リーグ、リーグカップ、天皇杯、ACLで20冠ともカウント)を積み上げJリーグ史で独走する未来など想像も出来ていない。

 鹿島vs名古屋は、そのまま「白いペレ」の異名を取るジーコと、7年前のワールドカップ得点王ガリー・リネカーの対決としてクローズアップされていた。

 もしかすると試合序盤の判定次第では、両雄のコントラストが入れ替わる可能性もあったのかもしれない。記念すべきプロ開幕戦で最初にビッグチャンスを掴んだのは、アウェーの名古屋だった。右から江川重光のクロスを中央で沢入重雄がダイレクトで落とすと、ガリー・リネカーがマークする奥野僚右とすれ違うように飛び出す。この時、鹿島側ではサイドバックの賀谷英司が最後尾に残っていた。リネカーは角度のない位置から逆サイドのネットへと叩き込む。鹿島ゴールを守る古川昌明も「やられた」と思った。

 ラインを見極め、絶妙のタイミングで抜け出すリネカーの真骨頂だった。だが副審は旗を上げ、オフサイドの判定を下した。おそらくVARが採用された今なら覆っていた判定だったはずだ。

 その後の展開は、まさに両チームを天国と地獄へと選別していく。ジーコは自らの縦パスで混乱を誘うと、こぼれ球に反応し中央から豪快に蹴り込み先制。続いて石井正忠が左サイドを単独で強引に切り裂きFKを獲得すると、ジーコが鮮やかなカーブをかけて内側のポストを叩きゴールネットを揺する。鹿島が2点をリードして前半を終えた。
 

「ジーコは、いつもゴールの角に的をつけ、必ず人で壁を作ってFKの練習をしていましたが、10本蹴れば8本くらいは(的に)当ててしまっていました」

 現在鹿島の強化部長を務める鈴木満が述懐している。

 とにかくジーコは本気だった。一度引退をしたとはいえ、長年セレソン(ブラジル代表)の10番を背負い、フラメンゴを世界一に導いた極めつけのファンタジスタがやって来たのは、日本リーグ2部で戦う住友金属である。土のグラウンドで佇むジーコに赤とんぼが止まるのを見た通訳の鈴木圀弘は、いたたまれなくなって尋ねたという。

「こんなところでプレーしていてむなしくないんですか?」

 しかしジーコは平然と答えた。
「最初からこういうものだと思って切り替えてきたから大丈夫なんだ」

 むしろ発展途上国への伝道は自分の使命だと考えていたようで、それは日本代表監督を退いた後のイラク、ウズベキスタン、インドでの指導と符合する。

 鹿島の前身に当たる住友金属のジーコ獲得交渉は、極秘裏に進められた。クラブに通訳として雇われた鈴木圀弘も、誰につくのかは一切明かされていなかった。

「ブラジルに滞在していた頃から、ジーコの大ファンだったので、聞かされて物凄い重圧が押し寄せて来ました。今でもよく覚えていますが、ジーコが来日会見をすると、みんな選手たちも足が震えていました。テレビで拝むのも難しいスーパースターが目の前にいるわけですからね」

 サッカーがメジャー化する前夜のことだ。社会的な認知度はともかく、現場の関係者にとってはアンドレアス・イニエスタの来日を凌駕する激震だった。特に当時監督だった鈴木満は過度のプレッシャーで「眠れなくなり、次の朝またグラウンドへ行くのが憂鬱になった」という。

「毎日ジーコが質問攻めにしてくる。トレーニングメニューの意味、ゴールネットの色、更衣室の状況から食事まで、気がついたことを矢継ぎ早に聞いてくる。そこである時割り切りました。ジーコは年上だし、すべて教わってしまおうと。それからはジーコに指導を受けながら、言われた課題をクリアーしていった。こうしてアントラーズは、他のクラブがプロ化に時間を要している間に、急ピッチで体制作りを進められたんです」
 


 鹿島はJ創設メンバーの中では最後発のチームだったが、ジーコは優勝しか考えていなかった。1992年にはJリーグの開幕に先駆けてナビスコカップが行われ、鹿島はベスト4に入り驚かせた。しかしジーコは、王者ヴェルティに敗れたことに切歯扼腕した。

 大きな転機になったのが、Jリーグの開幕を控えた1993年4月のイタリア遠征だった。
当初2戦目にはジーコの古巣ウディネーゼとの試合が予定されていたが、リーグ戦で好調だったために対戦を渋られた。そこでジーコ自らが交渉に乗り出し、ちょうどウディネで合宿中だったクロアチア代表とのマッチメイクを決めてしまう。

 まだ日本はプロ開幕前で、ワールドカップにも出場していない。キリンカップでナショナルチームを招待するようになったのも前年からで、逆に日本の単独チームが代表チームと試合を組むことなど考えられなかった。一方クロアチアは、日本が初出場する5年後のワールドカップで3位になる強豪である。鹿島が先制し彼らの闘争心に火をつけたこともあり、終わってみれば8ゴールを叩き込まれていた。

「クロアチアはベストメンバー。試合が出来るだけでもラッキーな相手。敵うわけがない。ところがそれでもジーコは激高しました。白板をバーンと叩きマグネットが飛び散る。僕もそれを拾い集めながら一緒に怒鳴りました。いつもジーコからは、スタッフも同じユニフォームを着るんだ、と言われていましたから」(鈴木圀弘)

 クロアチア戦の翌日から、ジーコは笛を持ち完全にチームを指揮するようになる。監督は宮本征勝だったが「チームが良くなるならそれでいい」と、快くジーコの進言を受け入れた。

 鹿島でのジーコは、日本代表監督時代とは別人だった。
「ポジショニングもセンチメートル単位で細かな指示を徹底していました」(鈴木圀弘)
「戦術も本当に細かく積み上げていった。個人戦術からグループへと繋げていき、駆け引きに長け、テーマを意識させるのが上手かった」(鈴木満)

 クロアチア戦後の怒髪天を衝くジーコのミーティングを経て、チームは開幕へ向けて引き締まっていく。帰国してブラジルの強豪フルミネンセを迎えるが、2戦して1勝1分けだった。
「相手のエドゥ監督も鹿島の戦いぶりには驚いていました」(GK古川)
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 後半に入ると、さらに鹿島が加速する。59分、サントスのフィードをジーコが頭で繋ぎ、アルシンドがマークするDFの股間を抜いて冷静に3点目。そして63分には、アルシンドへパスを出したジーコが、再びゴール前に顔を出して左足ボレーでハットトリックを完成。最後はアルシンドの華麗なループも決まって鹿島は5-0で大勝した。

 古川は言う。
「ジーコはクラブの象徴。みんながこの人のためにやらなきゃ、と引き締まり、勝つためには何が必要なのか。それをフロント、サポーターも巻き込んで、基礎から作り上げていったんです」

 またリネカーと対峙した大野俊三も、無失点に抑えることに成功した。
「とにかく前を向かせたら、小刻みなドリブルと振りの速いシュートがある。でもまだ、ここにくれ、と動き出しても、パスを出せるのがジョルジーニョしかいない様子でした。だからこちらは常にジョルジーニョを視野に入れながら、リネカーをしっかりマークするにしたんです」

 結局開幕戦で弾みをつけた鹿島は、ファーストステージで優勝を果たし、ここからJ随一の名門クラブへの道を邁進していく。鈴木圀弘は一度ジーコに訴えたことがある。

「もう辞めます。こんなに毎日怒られるのは、もう耐えられない」

 するとジーコは不思議そうに答えた。
「怒る?オレはおまえを怒ったことなど一度もないぞ」

 そう言われて観察してみると、ジーコは自分の子どもたちやブラジル人スタッフなど、誰に対しても同じ態度で接していた。いつも怒っているように見えたのは、それだけ魂を込めて取り組んでいる証だった。

「それに怒っても一生懸命やっている人間には必ずフォローを入れる。そこに人間味を感じる。だから愛されるんです」(鈴木満)

 逆にリネカーは、2年間でわずか4ゴールに終わり寂しく名古屋を退団した。キリンカップでトッテナム・ホットスパーの一員として来日した際にも、日本代表に0−4の完敗。残念ながら日本との相性は良くなかった。

 名古屋でファンが心から誇れるチームが生まれるのは、アーセン・ヴェンゲルがピクシーの再生に成功する2年後のことになる。

文●加部 究(スポーツライター)

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