アマチュアではW杯予選を勝ち抜けない…プロ化を促した85年日韓戦、敗北の真相【名勝負の後日談】

アマチュアではW杯予選を勝ち抜けない…プロ化を促した85年日韓戦、敗北の真相【名勝負の後日談】

聖地・国立で行なわれた韓国戦。日本は初のW杯出場を懸けて臨んだ。中央で相手選手と握手するのは加藤久キャプテン。写真:サッカーダイジェスト



 歴史に残る名勝負、名シーンには興味深い後日談がある。舞台裏を知る関係者たちが明かしたあの日のエピソード、その後の顛末に迫る。(文:加部 究/スポーツライター)

――◆――◆――

 国立競技場の光景が、約7か月前とは一変していた。当時満員を意味する6万2000人の大観衆がスタンドで日の丸を振っている。それはアマチュア時代の日本代表戦では考えられない出来事だった。

「頑張れば、こんなに応援してもらえるんだ」

 10番を背負う木村和司は、スタンドを見上げて感慨に耽る。筋金入りの代表好きだった都並敏史は極度の緊張に襲われ、ヘッドコーチの岡村新太郎が並んで観衆へ向けて手を振りながら歩き、ようやく落ち着きを取り戻したそうだ。

 7か月前の国立は、まるでアウェー状態だった。翌1986年にメキシコで開催されるワールドカップの1次予選で、日本はグループ内の最大のライバル北朝鮮を迎えた。だが五輪と合わせて地域予選での敗退が続く日本代表戦への関心は薄く、寂しいスタンドでは「イギョラ!」の掛け声や太鼓の音ばかりが鳴り響いた。財政難のJFA(日本協会)にとって「大量にチケットを購入してくれる在日朝鮮の方々はありがたい存在だった」というが、ピッチで戦う選手たちはホームの利を実感できず「あまりに悲しかった」(木村)と述懐している。

 当時国内のイベントで集客が望めるのは、欧州と南米の王者同士がクラブ世界一を賭けて戦う「トヨタカップ」か、全国高校選手権に限られ、日本代表戦のチケットの売れ行きは来日する対戦相手次第だった。日本サッカーの低迷が長引く間に、ファンの目は海外へと向けられた。すでに日本人でも奥寺康彦や尾崎加寿夫がドイツでプロ契約を果たしていたが、アマチュアの祭典だった五輪を最大の目標に掲げるJFAは、日本代表に彼らを招集しようとしなかった。特に日本代表を辞退してアルミニア・ビーレフェルトへの練習参加を決行した尾崎の例を見ても、欧州への挑戦は現在のように日本代表への近道ではなく、むしろ訣別に近い意味を持っていた時代だった。

 それでも1次リーグで北朝鮮を競り落とした日本は、ワールドカップ出場権を賭けた韓国との決戦まで勝ち上がった。そうなると五輪を遥かに超越するワールドカップへの憧憬を強めていたファンは、夢の舞台への扉を開ける瞬間を見届けようと国立のゲートへと吸い寄せられていった。
 

 しかし現実的に日韓両国では、準備段階で大きな差が生まれていた。韓国では2年前にプロとセミプロ計5チームによるスーパーリーグがスタートしており、85年7月30日には最終予選への進出を決めていた。それに対し日本は2次予選の香港戦を終えたのが9月22日だったから、日本代表を指揮する森孝慈監督も内心では「随分研究して来るんだろうな」と漠たる不安を抱えていた。

 しかも香港戦からの約1か月間で、日本代表の編成は急展開を見せる。発端は香港とのアウェー戦で、それまで予選全6試合にスタメン出場をしていた柱谷幸一が警告を受け、韓国との初戦(ホームゲーム)に出場できなくなったことだった。急浮上したのが、来日12年目で「ミスター読売」のニックネームで親しまれた与那城ジョージとJSL(日本リーグ)得点王の戸塚哲也の招集だった。与那城は一貫してリーグ最高のMFだったが、2月に読売クラブのチーム事情で日本国籍を取得したばかりだった。また戸塚は「自分を曲げてまでプレーするわけにはいかない」と、サッカー観の相違を理由に一度代表を辞退した経緯があった。

 当時の日本代表がアジア予選を勝ち抜くには守備に重きを置くスタイルを徹底するしかなかった。期待を膨らませて臨んだ2年前のロス五輪最終予選では、初戦でタイに完敗(2-5)し、4戦全敗に終わっている。だからこそメキシコ・ワールドカップ予選は、トップ下でゲームを操る木村の後方に宮内聡、西村昭宏と2人のボランチを配し、粘り強く勝ち上がっていった。ところが与那城と戸塚の加入で一気にチームカラーが変わった。明らかに攻撃力が高まり、国内での練習試合でも面白いようにゴールを重ねていく。

 与那城の実力は誰もが認めていた。ただし、だからこそ「ずっと一緒にやりたかった。でもどうして今なの?」と木村を筆頭にチーム内には忸怩たる想いもあった。まだJFAには、代表強化のために日本国籍取得を促すアイデアはなかったのだ。
 

 実は最終予選の日程を決める会議を前に、森は岡村に意見を求めている。
「ホームとアウェー、どっちを先に戦うのが良いと思う?」

 岡村は「先にアウェーで粘り、2戦目をホームで」と提案した。しかし森は最終的にホーム初戦を選択した。岡村はすでに故人となっていた森の胸中を推測した。
「先に韓国を叩き、その勢いを利用しなければ勝ち目がないと思ったんでしょうね」

 確かに生前の森は、韓国との決戦について、こう振り返っていた。
「客観的に当時の日本が韓国と10戦したら、2〜3勝はできても5敗くらいするだろうと思っていました。そのくらい実力的には劣っていた。だから勝算を弾き出して、これで行けるというものはなかったですね」

 大観衆が見守る国立でのホームゲームで、序盤日本の選手たちは戸惑っていた。格上の韓国は、いつも日本戦になるとキックオフから息をもつかせぬようなプレッシャーをかけてきた。ところがボランチの宮内は「あれ?きょうはガツガツ来ないな。意外にいろんなところでボールを受けられてスーッと行けちゃう」と感じていた。宮内は続けた。

「結局韓国が出て来ないから、逆に日本も行き切れない。後から振り返れば、その辺のバランス感覚では韓国が1枚も2枚も上でした」

 勝って当然の韓国にも重圧はあった。しかも最終予選に向けて日本がふたりのアタッカーを加え、攻撃力が上がっているという情報も入っている。25分までは、むしろ日本の力を見極めるように慎重な入り方をしていた。

 だがそこから、いよいよ韓国がペースを上げ波状攻撃を繰り出すようになる。
「日本はヘディングが強い原(博実)が左ウイングの位置から中央に入り、そのスペースをオーバーラップした都並が使う。でも韓国は、エースストライカーのチェ・スノを敢えて都並が上がる日本の左サイドに残していたんです」(森監督)

 30分、右サイドに流れたチェ・スノが鋭いグラウンダーのクロスを送ると、対応したDF石神良訓のクリアが弱く、チョン・ヨンファンがダイレクトで叩き込む。さらに41分には、韓国陣内でビルドアップをする日本側のミスを突き、インターセプトしたチョ・ミングクがそのまま都並の背後で待つチェへ繋いだ。

「あのゴールは、はっきりと覚えています。韓国がカウンターを仕掛けチェ・スノに繋いだ時に、日本のDFは加藤久ひとりしかいなかった。そこにイ・テホが上がって来て決められた。研究されたな、と思いました。チェはアジアでは頭抜けた決定力を持っていた。でも韓国は、そのエースをおとりに使い、勝ちに徹してきたんです」(森監督)
 

 しかし日本も43分に最大の見せ場を作る。正面やや右寄り、ゴールまで25mの位置でFKを獲得。木村が一言発しながらボールをセットした。
「入れたる」

 右利きの木村が狙うならニアサイドが常道だろう。だが木村はおそらくそう読んでくるGKの裏をかくことにした。

「壁があるので、GKには蹴る瞬間のボールが見えない。壁の上に浮き上がった時は、ニアへ飛ぶように見えるはずだ」

 実際GKチョ・ビュンドクは、1度左にステップを踏みかけている。ところが木村の蹴ったボールは、チョの反応とは真逆に大きく曲がり落ちた。

 1点差に迫って折り返し、日本のロッカーは「行けるぞ!」と盛り上がった。だが後半は攻勢をかけながらも、その1点が重かった。切り札の与那城を送り込んだのも残り8分、しかも代わりに退いたのは木村だった。

 逆に初戦を落とした日本は、アウェー戦でボランチの西村を外し、与那城をスタメン起用するギャンブルに出たが、同じく1点差に泣いた。

 ソウルから帰国し、東京プリンスホテルで催された解散式で森は選手たちに告げた。
「早くプロの時代が来るように、みんな先頭に立って引っ張ってくれ」

 プロの時代が到来した今から振り返れば、想像もつかない事情が詰まっていた。韓国決戦を目前になるまで国内最高のMF与那城を招集するプランが浮上しなかった。またワールドカップ予選なのに、ドイツで活躍するプロ選手が構想から外れていた。

 ドイツに留学経験を持つ森は「指導者こそ先にプロになるべき」だと考えていた。しかしこの日韓戦後に受けた代表監督続投の要請の中にプロ契約のビジョンはなく、自ら退陣を選択した。

 もうアマチュアでは戦えない。遠かった1点が限界を明示した一戦だった。(文中敬称略)

文●加部 究(スポーツライター)

関連記事(外部サイト)