「別のやり方があった」宮本恒靖が負った深い傷…ドイツ惨敗の代償【日本代表キャプテンの系譜】

「別のやり方があった」宮本恒靖が負った深い傷…ドイツ惨敗の代償【日本代表キャプテンの系譜】

ドイツW杯で日本代表のキャプテンを務めた宮本。写真:サッカーダイジェスト



 欧州8年のプレー実績を誇る中田英寿を筆頭に、高度な海外経験を積み重ねた中村俊輔(横浜FC)や高原直泰(沖縄SV)らを擁した2006年ドイツ・ワールドカップの日本代表は「史上最高のタレント集団」と位置付けられた。「この陣容なら2002年日韓ワールドカップのベスト16を超えられる」という周囲の期待も非常に高かった。

 国民の熱い思いを誰よりも強く感じていたのが、当時のキャプテン・宮本恒靖(ガンバ大阪監督)だった。10代の頃から年代別代表で主将の重責を担ってきた男は、2003年東アジア選手権(東京)で「キャプテンをやれ」とジーコ監督(鹿島TD)から指名を受け、数々の困難に率先して立ち向かってきた。前任者のフィリップ・トルシエとは対極の自主性重視の指揮官に「もっと戦術練習を取り入れてほしい」と要望を出し、2004年アジアカップ準々決勝・ヨルダン戦(重慶)で主審に異議を申し立ててPK戦の場所を変えさせて優勝へと導き、最終予選でも痛恨の敗北を喫したイラン戦後に4バックから3バックへの変更を指揮官に提言。要所要所で重要な役割を果たしてきた。だからこそ、「宮本がいれば、ドイツでも大丈夫」といった空気がチーム内外に流れていたのは確かだし、ジーコも信頼を寄せていたはずだった。

 だが、ワールドカップというのは注目度も期待値も他の大会とは比べ物にならないほど凄まじい。宮本が改めてそのことに気づいたのが、5月末の福島合宿だった。Jヴィレッジには連日、1万人をはるかに超える観客が集まり、選手がボール回しやミニゲームをするだけで異様な歓声に包まれる。日韓ワールドカップの時は事前合宿から本大会に至るまでずっと非公開練習だったから、こういうムードになることは一切なかった。

「どこか、雰囲気がおかしい……」

 宮本は焦燥感を覚え、ジーコに「非公開を取り入れてほしい」と申し出た。しかし指揮官の答えはNO。「やり方を変えるつもりはない」という言葉を耳にし、「それなら自分たちがしっかりやるしかない」と気を取り直してベースキャンプ地・ボンへ赴いた。

 そのボンでも連日、公開練習が続き、ジーコはメンバーを固定したまま調整を続けた。5月30日のドイツ戦(レバークーゼン)を2-2で善戦したことでチームには「イケる」という前向きな感触が生まれたが、6月4日のマルタ戦(デュッセルドルフ)で精彩を欠いたあたりから再び不穏な空気が漂い始める。その実情を報道陣やサポーターが目の当たりにするようになり、控え選手からも「雰囲気があまりよくない」「主力組がずっと同じでメンタル的に難しい」といった発言が飛び出し始めた。

 ひとつになり切れないチームにキャプテンは頭を悩ませたが、気分転換を図ろうにも、ホテルも練習環境も長期間一緒の共同生活。数多くの日本人が行き交うボンの街中には自由に外出できない。選手たちはストレスを抱えたまま、集中して本大会に挑めなかったのは、紛れもない事実だろう。

 加えて言うと、同年のドイツは6月初旬まで異常な低温が続き、そこから気温が急上昇。猛暑の中、14日の初戦・オーストラリア戦(ガイザースラウテルン)を迎えることになり、日本の選手たちは終盤になって足が止まり、気候適応の失敗を露呈する形になった。ご存じの通り、結果は1-3の惨敗。中村俊輔のラッキーゴールでリードしたにもかかわらず、ラスト6分間で3失点を食らうという最悪の負け方だった。

 このショックはあまりにも大きく、日本は18日の第2戦・クロアチア戦(ニュルンベルク)で勝点1を取るのが精一杯。22日の最終戦・ブラジル戦(ドルトムント)は1-4と完膚なきまでに叩きのめされ、玉田圭司(長崎)の先制点も空砲に終わった。

 こうした苦い経験を踏まえ、2010年南アフリカ大会以降は試合会場の環境や気象条件を考えながら、事前合宿地とベースキャンプ地を明確に分け、非公開練習も要所で取り入れられるようになったが、それはドイツでの反省を踏まえたものだ。宮本キャプテンの意見が少しでも反映されていたら、最強軍団はもっといい状態でドイツ・ワールドカップを戦えていたのではないだろうか。そう考えると、14年が経過した今でも残念と言うしかない。

 もうひとつの足かせとなったのが、ジーコ監督が特定選手を絶対視したことだ。その筆頭と言えるのが中田だった。彼と宮本は93年U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)からの付き合いで、ともに日の丸をつけて戦ってきた長年の盟友だ。しかし、ドイツをキャリアの集大成と考えていたこと、大会後に選手生活に区切りをつける決断を下していたことは明かさず、ひとりで黙々と準備に努めていた。他のチームメートともどこか壁を作っているように感じられ、その点は宮本も危惧していたようだ。

 ボン入りしてすぐの頃、気配りに長けた小野伸二(琉球)が「ヒデさん、一緒にボール回しをやりましょう」と誘い、中田もグループに参加したことがあった。が、それはわずか数日で終了。宮本自身も何度かきっかけ作りを試みたが、盟友は振り向かず、現役最後となるブラジル戦が終わるまでスタッフとボールを蹴っていた。

 そんな行動に宮本は寂しさと虚しさを覚えつつ、自身も肝心のブラジル戦で出場停止になる不甲斐なさを味わった。グループ最下位という結果も含め、あらゆる意味でキャプテンとしての力不足を痛感したドイツの一部始終はしばらくの間、深い傷となって消えなかったという。

「キャプテンとして別のやり方があったのかなと思いますね。いろんな考えを持つ選手がいたとしても、それをひっくるめてひとつの方向にもっていく強引さ、キャプテンシーを発揮できていたら、結果は違っていたかもしれないと思うんです。『みんな頑張れよ』という感じじゃ足りなかったのかなとね」

 ドイツ・ワールドカップから数年後、宮本はこうつぶやいたことがあった。それは海外に出て、さまざまなリーダー像を目の当たりにしたことが大きい。レッドブル・ザルツブルクの同僚だった当時のクロアチア代表主将、ニコ・コバチ(バイエルン前監督)などは、仲間に有無を言わさず「こっちを見ろ」と引き付ける強烈なカリスマ性と圧倒的統率力を備えていた。

 異様な重圧がのしかかる中、結果を求められるワールドカップのキャプテンというのは、ある意味、「嫌われ役」になるくらいの図太さが必要なのかもしれない。宮本の苦く辛い経験は、その後の長谷部誠(フランクフルト)や吉田麻也(サンプドリア)にしっかりと引き継がれていると言っていい。

文●元川悦子(フリーライター)

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