失点に絡む失態も「俺がやらなければ」という思いから【ファルカン・ジャパンの“10番”岩本輝雄の栄光と苦悩の記憶|LAST EP】

失点に絡む失態も「俺がやらなければ」という思いから【ファルカン・ジャパンの“10番”岩本輝雄の栄光と苦悩の記憶|LAST EP】

韓国との一戦では、たしかに失点に絡んだが、際どいシュートやFKなど見せ場も作った。(C)J.LEAGUE PHOTOS



【前回までのあらすじ】
 10月のアジア大会、“新10番”岩本輝雄は、本来の実力を発揮できずに苦しんでいた。ミャンマーとのグループリーグ最終戦では初のスタメン落ち。「出たら、結果を出す。それしか頭になかった」と神経を研ぎ澄ませ、途中出場から意地のゴールを叩き込み、“復活”の兆しを見せていたが……。

――◆――◆――

<ラストエピソード>
 決勝トーナメント準々決勝、運命の韓国戦。ミャンマー戦でゴールを挙げたテルだが、スタメンには返り咲けなかった。試合は30分にカズの得点で幸先良く先制したが、51分にユ・サンチョルに決められて1-1に。一進一退の攻防が続いていた68分、日本の背番号10が投入される。

「韓国は強いけど、やるしかなかった。韓国とのライバル関係とか、深く考えていなかった。無我夢中だった」

 気合い十分。初っ端からアクセル全開。ファーストプレーは、中盤でのルーズボールに勢いよく飛び込んだ。“闘う姿勢が見えない”といった批判を意識したわけではなかっただろうが、UAE戦やカタール戦に比べて、球際でバチバチとやり合う場面が目立った。

「いや、そうでもしないとボールが奪えないから。球際はなるべく激しく行こうとは思った」
 
 攻撃でも守備でも、目の前のボールに、とにかく食らいつく。俺がなんとかする――そんな強い意志が随所に見られた。73分、自らが蹴ったCKのこぼれ球に素早く反応し、際どいシュートを放つ。その数分後、前園真聖の果敢な仕掛けが相手のファウルを誘い、好位置でFKのチャンスを得ると、誰よりも先にそのポイントに陣取り、両手を腰に当ててプレー再開を待つ。“蹴るのは俺だ”と言わんばかりに。ボールがセットされると、テル、カズ、柱谷哲二がその周りを囲う。「どうする?」と聞かれた。「俺が蹴ります」と譲らなかった。

「得意な位置だったから」

 カズが蹴る振りをした直後、狙いを定めて左足をコンパクトに振る。GKの好守に阻まれたが、チームを活気づけ、相手を慌てさせる一発だった。

 要所でプレーに絡み、存在感を発揮していたが、そのエネルギッシュなプレーが、ある意味、裏目に出てしまった。

 77分、右サイドからアーリークロスを放り込まれる。柱谷が弾き返そうと前に出る。そこにテルも加わったが、ふたりとも競り負けて倒れ込む。ボールはまだ韓国側がキープしている。すぐに立ち上がったテルは、懸命に戻った。今度は左サイド。井原正巳が立ち塞がるが、1対2の数的不利の状況で突破を許す。センタリングを入れられる瞬間、テルは右足を伸ばしたが間に合わず、ゴール前で待ち構えていたファン・ソンホンに決められてしまった。
 

「結局、俺のサイドからやられた。左サイドからえぐられて……」

 失点に絡んでしまった。痛恨だった。今さら“たら・れば”の話をしてもしょうがないが、相手のアーリークロスに柱谷が競りに行った時、そこに加わらなければ、その後の展開で違う対応ができたかもしれない。あのセンタリングもブロックできたかもしれない。

 しかし、それも後講釈でしかない。件のシーンで、苦手としているヘディングで柱谷に加勢したのも、「俺がやらなければ」という思いからだった。

 その後、日本は井原のスーパーミドルで同点に追いつくが、終了間際にその井原がPKを献上。これをファン・ソンホンに沈められ、2-3で敗れ去った。

 目標としていた優勝はおろか、ベスト4にも進めず、ファルカンは解任。「残念だったし、自分を見出してくれたファルカンには申し訳ないし、悔しさもいっぱいある」とアジア大会を総括するテルにとっても、激戦となった韓国戦が代表でのラストマッチになった。
 
「激動だったよね。94年は。現役としてのキャリアは4年目だけど、プロとしては1年目で、いろんな面で勝手が分からず、探り探りというか。代表も、最初はもう勢いでやるしかなかった。いいこともたくさんあったけど、辛いことのほうが多かったかな、代表は」

 わずか7か月の短命に終わったファルカン・ジャパンとともに、前だけを見据えて駆け抜けようとした。前途洋々な20代前半、端正なルックスも相まって、高まる注目度と期待度をひしひしと感じていた。

「まだ若かったからね。調子に乗っていたつもりはないんだけど、もしかしたら浮足立っていたのかもしれない」

 歳を重ねた今なら、周囲の様々な評価にも「そう思っているなら、それでいいんじゃない。メディアもそれが仕事だし。別に気にならないよ」と言える。だが、特にアジア大会の時は、そんな余裕はなかった。かかる期待に押しつぶされそうになった。

 ファルカン・ジャパン以後、テルは日の丸と無縁になった。「あの後、良い選手がいっぱい出てきたからね」。ただ、まったくチャンスがないわけではなかった。

「02年の時かな。J1で、ベガルタで活躍していて。声がかかりそうな雰囲気はあったけど、数か月後にはワールドカップが始まるとかで、具体的な話に発展しなかった。時間が足りなかったんだろうね。あと、ジーコが監督になった時も『どう?』みたいなのはあった。でも、その時は肉離れしていて、結局ダメだった」
 

 改めて、日本代表での日々を振り返れば、「良い思い出だよ」と柔らかな笑顔を浮かべる。Jリーガーとしては、平塚でその名を挙げたあと、京都、川崎、V川崎と1年毎に所属クラブを変える時期を経て、仙台に落ち着き、名古屋でもプレー。度重なる怪我に悩まされて、一時はピッチから遠ざかったが、ニュージーランドのオークランド・シティで復帰を果たし、クラブワールドカップにも出場した。

「もがいたし、反抗してシーズン途中にクラブを退団したこともあったけど、すべてをひっくるめて、良い経験をさせてもらった。代表では、ファルカンはもちろん、協会の人たちにも感謝している。自分という人間を大きくしてくれた、成長させてくれたサッカー人生だった」

 現役を退いてしばらくしてから、ある取材時に確認したことがある。「肩書き、どうしますか?」と。ほんの少しだけ思案して、テルは答えた。「フットボール・トラベラーでいいんじゃない」。

 現在、48歳。午前中はトレーニングに励んでいる。

「ファルカン・ジャパンが終わった後も、常に代表は目指していたし、それは今も変わらないよ。今日も400メートル走、がっつりやったしね(笑)。もう一度、あの舞台に立ちたいよね!」

 テルは相変わらず、果てしないサッカーの旅路を歩いている。
 
<エピローグ>
 もしかしたら、自分もこの舞台に立っていたかもしれないのに――そんな風には思わなかった。

 1997年11月16日の深夜。98年のフランス・ワールドカップのアジア最終予選、アジア第3代表決定戦の日本対イラン。この試合に勝てば、日本のフランス行きが決まる。

 118分、劇的なVゴールを決めたのは、小学校時代に横浜市選抜で一緒にプレーした同い年の岡野雅行だ。平塚のチームメイト、中田英寿や呂比須ワグナー、プレーヤーとしても尊敬している名良橋晃、自分の代表デビュー戦では「行くぞ、テル!」の掛け声で緊張をほぐしてくれた井原正巳、憧れの存在であるカズもいる。心から日本代表を応援していた。妬みやひがみといった負の感情は、まったくなかった。

 なかでも、画面を通じて中田の凄みを再確認した。スコアは3-2。日本のすべての得点を、中田が演出した。中山雅史の先制点、城彰二の同点弾をアシスト。岡野がプッシュしたボールは、中田が放った強烈なミドルを相手GKが弾いた、そのこぼれ球だった。

「ヒデの実力はベルマーレで間近で見ているから。やっぱり、あれぐらいじゃないと、この舞台には立てないんだなって。自分はそこに及んでいないと思っていた。それは認めていたから、純粋に応援できた」

“ドーハの悲劇”の時は、タイムアップを待たずに眠りについたが、今度は寝なかった。リアルタイムで“ジョホールバルの歓喜”を見届けて、ベッドにもぐりこんだ。

<完>

取材・文●広島由寛(サッカーダイジェスト編集部)

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