超寡黙なメッシが「喋り始めた」理由。今や敵将と言い争うまでに…

超寡黙なメッシが「喋り始めた」理由。今や敵将と言い争うまでに…

19年のバロンドール授賞式後には、出待ちのメディアの前で足を止めたメッシ。1年前では考えられないようなシチュエーションだった。(C)REUTERS/AFLO

昨年12月2日、リオネル・メッシが2019年のバロンドールに輝いた。史上最多となる6度目の受賞である。

 しかしそれ以上に画期的な出来事が、パリでの授賞式後に起こっていた。セレモニー会場から出てきたメッシが、出待ちしていた取材陣の前で足を止めたのだ。

 記者たちは誰もが驚いた。いつも通り、素通りされると思っていたからだ。詳細な質問を用意していなかった彼らは、まさに思いつくままにクエスチョンを投げかけるしかなかった。

 メッシはずっと“喋らない選手”で有名だった。17歳でプロデビューしてから昨シーズンまでの約15年間で、彼が15分を超えるインタビューに応じたのは、20件に満たないだろう。

 バルセロナでもアルゼンチン代表でも、試合後の取材エリアで足を止めたことはほぼ皆無。チャンピオンズ・リーグやワールドカップ(W杯)の重要な試合でも、それは同じだった。私もこれまで何度かミックスゾーンで待ち構えた経験があるが、結局はたったひと声しか取れずに終わってしまう。「ノー」というお馴染みの答だ。
  2016年、個人スポンサーを務める飲料メーカーの『ゲータレード』が、メッシのPRビデオを作った。「メッシは口では説明しない」というナレーションからスタートする動画で、そのとおり一言すらも発しない。メッシは言葉では語らない、その代わりドリブルやパス、そしてゴールで誰よりも雄弁に語っている――。そんな内容で、当時のメッシの姿を実に的確に表現していたものだ。

 18年のロシアW杯期間中に私は、ホルヘ・ブルチャガと話をした。ディエゴ・マラドーナとともに86年W杯でアルゼンチンを世界一に導き、今はアルゼンチン代表のチームマネジャーを務めるレジェンドだ。

 古い友人である私たちは冗談を飛ばし合いながら色々な話をしたが、メッシの話題になると彼は急に真顔になった。

「メッシはあまり話さない。とくにピッチ上ではほとんど口を開かない。彼が意思を伝えたいときは目で、そして足で話すんだ。だからあれだけシャイな性格でも、リーダーでいられるのさ」
  ひとつ断っておきたいのは、クラブと代表ではメッシの雰囲気がまるで異なるということだ。バルサではやはりメディア対応がほとんどなかったものの、比較的温和で、親しみやすい空気を醸し出す。

 ところが、アルゼンチン代表になると全てが変わる。両チームのチーム状況、チームメイトの質、そして何よりサポーターの反応が大きく異なるからだ。

 ブラジル人の私から言わせれば、アルゼンチンの国民はメッシを絶対的には信頼していない。この天才をサポーターやメディアは非難し、監督も扱いに頭を悩ますばかり。A代表では無冠という事実も強大なプレッシャーとなって圧し掛かる。そんな中である種の“防衛手段”となったのが、寡黙を貫くことだったのではないか。
  故郷ロサリオからバルセロナに渡った時、メッシはまだ13歳だった。成長ホルモン投与が必要なほど本当に小さな少年は、当時からとてもシャイで寡黙だったという。

 異国の、それも極めてハイレベルなチームにたったひとり放り込まれた子供にとっては、自分を認めさせ、守る手段はフットボ―ルしかなかったのだろう。「プレーだけは自分を裏切らない」という信条だけが頼りだった。こうしてメッシは口を閉ざしたのだった。

 そんなメッシに変化が起こったのは、19年夏のコパ・アメリカだった。より正確にはブラジルに0―2で敗れたセミファイナルの直後だ。試合後に突然、こうぶちまけて周囲を唖然とさせた。

「この大会は(開催国の)ブラジルが優勝できるように仕組まれている。今日の試合は正反対のジャッジが目立った。審判はブラジルが有利になるように笛を吹いていたんだ」

 続く3位決定戦では、チリのガリー・メデルと揉み合いの末に双方が一発退場。メッシはその試合後、ミックゾーンで今度はコンメボル(南米サッカー連盟)に攻撃の矛先を向けた。

「コンメボルは腐敗している!!」

 勝っても負けてもいつだって寡黙だったメッシが、こんなことを言うなんて……。私を含めて、その場にいた記者たちは誰もが唖然とした。
  それからのメッシは、まるで堰を切ったように語り出す。半年弱という実に短い期間で、サッカーからプライベートまで実に様々なことを喋っているのだ。

 息子たちのこと――。
「次男のマテオは冗談好きで、とくに兄のチアゴをからかっては怒らせる。レアル・マドリーがゴールを決めると、マテオは大声で『レアル!! レアール!!』と叫ぶんだ。チアゴがクレイジーなバルサ・ファンだってことを知ったうえでね(笑)」

 選手キャリアのこと――。
「僕がいつ選手を引退するかなんて、話題にするのはまだ早すぎる。決めるのは僕、そう僕自身だ。何よりもいつまでハイレベルなサッカーができるかが重要だ」

 バルセロナのこと――。
「バルセロナの人々は心配しなくていい。どんな高額な契約より、僕にとってはバルサの紙切れ一枚のほうが大事だ。僕はバルセロナが好きだし、どこにも行かない」
  アルゼンチン代表のこと――。
「ワールドカップでは良いところまで行っても、チーム内の空気はいつも張り詰めていた。監督が何度も代わったことも、チームにはマイナスになった。いま言えるのは、僕はアルゼンチンのために心を込めてプレーしているということだ。僕の代表でのプレーが気に入らなければ、拍手しなければいいだけだ。とにかく黙って僕にプレーをさせてくれ。そうすれば僕はベストを尽くす。そしてタイトルを勝ち取る」

 また、デリケートな“ネイマール問題”にも躊躇なく切り込んでいく。
「僕たちが一緒にプレーすれば、チャンピオンズ・リーグで優勝することができる。だからネイマールにはバルサに帰ってきてほしい。あと2年ぐらいすれば、僕はスパイクを脱ぐかもしれない。その後はネイマールの天下だ。彼だったらバルサで僕のポストを受け継ぐことができる」

 さらにアルゼンチンの新聞には、こんな本音も語っている。
「途中交代でピッチを退くのは好きじゃない。フル出場するか、それともベンチからスタートして途中から入るほうがいい。なぜなら試合が左右されるのは、いつも後半の最後の時間帯だからだ。周りの選手たちは疲れているから、いつも以上に好きに動ける。だからできるなら僕は毎試合、後半だけプレーしたいね」
  メッシに何が起こったのだろうか。32年間の沈黙を破った理由はどこにあるのだろうか。

 世間では様々な意見が出ているが、私はその最大の理由が家族にあると思っている。幼少期に出会ったアントネラ・ロクソと結婚し、3人の息子を授かった。家族が心に平穏をもたらし、少年を青年に変え、異なる人生観を与えたのではないか。「自らの口で語る」という新たな表現方法も含めてだ。

 もうひとつ無視できないのが、年齢の問題だ。メッシはもう32歳。残念ながらこれから、“足で語る”機会はどんどん減っていくだろう。足首の怪我でスタンド観戦を余儀なくされた今シーズン序盤戦で、本人もそのことを強く感じたようだ。こう吐露している。

「自分では25歳ぐらいの気持ちでいて、25歳ぐらいのパフォーマンスができると思っている。でも、身体は25歳じゃない。だから怪我をするんだ」
  自分の伝えたいことが、プレーだけでは伝えられなくなる――。これからはそんな機会が多くなるだろう。そう遠くない未来に訪れる引退後は余計にそうだ。だったら口を開くしかない。

 こうしてサッカー人生の終盤に差し掛かり、やっとメッシは自分が何を思っているか、何を望んでいるかを語り出した。重圧から嘔吐しても、ハットトリックを決めても、無言でスタジアムを去る――。そんなかつてのメッシは、もはや忘却の彼方だ。
  もちろん、このメッシ変貌が問題を生み出すケースもある。例えば19年11月15日にサウジアラビアで開催された南米クラシコ(ブラジル対アルゼンチンの親善試合)。相手選手と諍いを起こしたり、レフェリーに暴言を吐いたりすることがほとんどなかったメッシが、感情を露わにしたのだ。

 試合はアルゼンチンが前半13分にメッシのゴールで先制。ブラジルのチッチ監督は後半、メッシのファウルに対して「イエローカードだろ!!」と主審にアピールした。

 その後に展開されたシーンは、この目で見ていなければ信じられなかったろう。メッシはチッチに近づくと、口に指をあてて「黙れ!!」と言ったのだ。チッチはかなり驚いたようで、試合後にブラジルの選手たちにこう言ったという。

「私はなんと、あのメッシに黙ってろと言われたよ」
  また19年12月7日のマジョルカ戦(ラ・リーガ16節)では、同じく相手指揮官と言い争いを演じた。メッシはタッチライン際でファウルを受けて、イエローカードじゃないかと主張。これを目の前にいたマジョルカのビセンテ・モレーノ監督に咎められると、なんと激しく言い返したのだ。相手を指差しながらだ。1年前では考えられないような光景だった。

 シャイで寡黙だった少年は、青年となって自らの胸の内を発信しはじめた。きっとこれからは、ピッチ内外でどんどん「本当のメッシ」を見せてくれるはずだ。史上最高のフットボーラーのビジョンを、我々は大いに堪能すべきだろう。

文●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子
※『ワールドサッカーダイジェスト』2019年1月2日号より転載

【著者プロフィール】
リカルド・セティオン/1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとして中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中を飛び回って現場を取材。多数のメディアで活躍する。FIFAの広報担当なども務め、ジーコやカフーなどとの親交も厚い。現在はスポーツ運営学、心理学の教授としても大学で教鞭も執っている。
 

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