望月慎太郎と島袋将がウインブルドンで初の予選突破!異なる道を歩んできた二人の“共通する信念”<SMASH>
2023年07月01日 13時25分THE DIGEST

島袋(左)と望月(右)は予選決勝をストレート勝利し初の本選出場を決めた。試合後には顔を合わせ、硬い握手を交わす。写真:内田暁
わずか3分の時を隔て、二人はウィンブルドン本戦の舞台へと、肩を並べるように駆けこんだ。
ウィンブルドン予選の決勝戦――。望月慎太郎はウイナーを叩き込むと、控え目に拳を掲げ、勝利の時を淡々と迎えた。
その数分後、コート3面を挟んだ7番コートでは、島袋将がサービスウイナーを決め、両ヒザを芝につき歓喜の味を噛みしめる。
ほどなくそれぞれの試合コートを離れた二人は、取材エリアで顔を合わせると、がっちり硬い握手を交わした。
年齢も、ジュニア時代に歩んだ道も大きく異なる二人の足跡が、この時、“テニスの聖地”への入り口で重なり合った。
「最近はATPチャレンジャーで一緒になることも多かったし、慎太郎がチャレンジャーで優勝したら、直後に将も優勝した。お互い意識しているし、将には刺激になっていると思いますよ」
現在、島袋のマネージャーを勤める元プロテニスプレーヤーの佐藤文平氏は、両者の関係をそう明かした。
実際に望月も、「最近は大会で一緒になることも多いし、練習もしてもらったりと親しくなってきました」と語る。
3週間前に20歳の誕生日を迎えたばかりの望月は、4年前のウィンブルドンジュニア王者。13歳の時に、盛田正明テニスファンドの支援を受けIMGアカデミーに留学した、いわばテニスエリートである。
もっとも望月は当時から痩身小柄で、フィジカル面で恵まれていた訳ではない。そんな彼の武器は、“頭脳”。相手の弱点を突き、緩急と配球の妙でミスも誘い、機を見極めてはネットに詰めてボレー鋭く仕留める。高い分析力と戦略性、そして相手に応じて自身のプレーも柔軟に変えられる適応力こそが、彼を世界のトップジュニアたらしめた要因だ。
ただそのような柔軟性は、環境や対戦相手に依存しやすい。ジュニアを卒業し大人の世界に飛び込んだ望月は、あらゆる情報を再収集し、新たにデータ解析をする必要があった。もちろん戦術をはじき出しても、フィジカルや技術不足で実践できないこともあっただろう。
IMGアカデミーの先輩である錦織圭が、「しんちゃん(望月の愛称)は読めないですね。直ぐに上に行くかもしれないし、かなり時間が掛かるかもしれないし」と言ったのも、そのような理由からだった。 実際には何をもって、順調か、時間が掛かったと見るかは難しい。唯一の確かな指標である本人の皮膚感覚は、「苦しいところもありながら、毎回毎回、少しずつでもすごく成長してる」である。
「着実に成長していると感じていたので、心配はしていなかった」と篤実に語る口調には、プライドと自信の音が響く。
ただ、「プレースタイルへの自信はずっと変わらなかったか」と尋ねた時の答えに、少しばかりの葛藤がにじんだ。
「そうですね……変わらないように努力しているところもありますけど。そこはもう本当に、貫いてやっていきたいと思っているんで」
努力している、の言葉は換言すれば、時にぶれそうになる自分への叱咤だろう。
「やっぱり色々と意見がありますし、自分でも考えたり迷ったりは自然と出てきちゃうんで。でもそこを、自分のテニスは何なのかって考えて。やっぱり他の人と違うところがすごい大事なので、そこは今後も、絶対に大事になってくるかなと思います」
そのような望月の信念を裏打ちしてくれたのは、今年2月からコーチに就任した、ダビデ・サンギネッティかもしれない。添田豪やディナラ・サフィナらの指導経験を持つ元世界42位は、「すごく僕のことを信じてくれる」と望月は言う。
同時に、ジュニア時代はコーチに頼っていた戦術立案も、今は助言を得つつ基本は自分で行なっている。
「試合をするのは自分なので、そこは常に自分がしっかりしたいと考えています」
その指針が、望月のスタイルに一本芯を通している。
ジュニア時代の栄光に捕らわれることなく、今大会でも「ここで優勝したというのは他人事のよう」と、感傷に浸ることもない。ただ、己のテニスを貫いたその先で、少年時代にトロフィーを掲げた舞台に戻ってきたのは、決して偶然ではない。「やっぱり“テニスの聖地”と聞いていたので。ジュニア時代から、『ウィンブルドン、ウィンブルドン』と言っていました」
照れた笑みと共に島袋がそう言ったのは、予選初戦を突破した時だった。
グランドスラム予選デビューが、ジュニア時代からの憧れの地。芝でのプレー経験はほとんどないが、「僕のフラット気味のフォアは、芝で効く」との手応えを、手のひらに残していた。
高校時代までのシングルス戦績は、「インターハイのベスト8」が最高。
同期には世界で活躍するジュニアも多い中、「高卒でプロになる自信はなかった」とも明かす。
それでも早稲田大学進学後も、「プロになる」の決意と、「自分の武器はフォアを生かした攻撃力」の信念は貫き通した。
「大学1年目は全然勝てなかったんですよ、ミスが多くて」と認めるも、「自分のテニスは絶対に変えたくなかった。先のないテニスはしたくなかった」と言う。
「監督やコーチはヒヤヒヤしたと思います」と申し訳なさそうにこぼすが、結果的に2年時に全日本大学選手権を制したことで、懐疑の声も封じてみせた。
同時に在学時から、卒業後のプロ転向に向け、準備を進めていたという。ナショナルチームの学生枠に選ばれたため、人脈が広がったことも大きい。大学の先輩でもある佐藤文平氏に、スポンサーやチーム編成について相談もした。
大学講師に軸足を置く佐藤氏にしてみれば、自由に使える時間は限られる。ただ、プレーのポテンシャルや体格、そして人間性やカリスマも含め、島袋に大いなる可能性を感じた。過去に大卒でプロになった選手は数多くいるものの、それら先人たちの経験が「紡がれていない」ことに危機感を覚えていたともいう。
「大卒でプロになった選手にとって一番危険なのは、すぐ大海原(=ツアー)に出てしまうこと」
常々その点を危惧していた佐藤氏は、コロナ禍の時間も活用して資金を調達し、クルーを集め、海図を引いた。コーチのトーマス嶋田にトレーナーの大瀧レオ祐市、そしてフィジカルコーチの松田浩和は、いずれもATPツアー帯同経験者である。
プロ転向から3年で到達したグランドスラム本戦は、綿密に計算した「最短航路」の帰結。その港がウィンブルドンだったのは、己のスタイルを貫く島袋の実直さが、憧れの地を真っすぐに指したからだ。
異なる道を歩んできた望月と島袋に通底するのは、一本芯の通った信念と、その決意を信じる周囲の助力。そしてここをゴールではなく、スタートラインと見なす視線だ。
現地取材・文●内田暁
【PHOTO】ウインブルドンJr.を制した望月慎太郎の基本に忠実なリターン連続写真!
ウィンブルドン予選の決勝戦――。望月慎太郎はウイナーを叩き込むと、控え目に拳を掲げ、勝利の時を淡々と迎えた。
その数分後、コート3面を挟んだ7番コートでは、島袋将がサービスウイナーを決め、両ヒザを芝につき歓喜の味を噛みしめる。
ほどなくそれぞれの試合コートを離れた二人は、取材エリアで顔を合わせると、がっちり硬い握手を交わした。
年齢も、ジュニア時代に歩んだ道も大きく異なる二人の足跡が、この時、“テニスの聖地”への入り口で重なり合った。
「最近はATPチャレンジャーで一緒になることも多かったし、慎太郎がチャレンジャーで優勝したら、直後に将も優勝した。お互い意識しているし、将には刺激になっていると思いますよ」
現在、島袋のマネージャーを勤める元プロテニスプレーヤーの佐藤文平氏は、両者の関係をそう明かした。
実際に望月も、「最近は大会で一緒になることも多いし、練習もしてもらったりと親しくなってきました」と語る。
3週間前に20歳の誕生日を迎えたばかりの望月は、4年前のウィンブルドンジュニア王者。13歳の時に、盛田正明テニスファンドの支援を受けIMGアカデミーに留学した、いわばテニスエリートである。
もっとも望月は当時から痩身小柄で、フィジカル面で恵まれていた訳ではない。そんな彼の武器は、“頭脳”。相手の弱点を突き、緩急と配球の妙でミスも誘い、機を見極めてはネットに詰めてボレー鋭く仕留める。高い分析力と戦略性、そして相手に応じて自身のプレーも柔軟に変えられる適応力こそが、彼を世界のトップジュニアたらしめた要因だ。
ただそのような柔軟性は、環境や対戦相手に依存しやすい。ジュニアを卒業し大人の世界に飛び込んだ望月は、あらゆる情報を再収集し、新たにデータ解析をする必要があった。もちろん戦術をはじき出しても、フィジカルや技術不足で実践できないこともあっただろう。
IMGアカデミーの先輩である錦織圭が、「しんちゃん(望月の愛称)は読めないですね。直ぐに上に行くかもしれないし、かなり時間が掛かるかもしれないし」と言ったのも、そのような理由からだった。 実際には何をもって、順調か、時間が掛かったと見るかは難しい。唯一の確かな指標である本人の皮膚感覚は、「苦しいところもありながら、毎回毎回、少しずつでもすごく成長してる」である。
「着実に成長していると感じていたので、心配はしていなかった」と篤実に語る口調には、プライドと自信の音が響く。
ただ、「プレースタイルへの自信はずっと変わらなかったか」と尋ねた時の答えに、少しばかりの葛藤がにじんだ。
「そうですね……変わらないように努力しているところもありますけど。そこはもう本当に、貫いてやっていきたいと思っているんで」
努力している、の言葉は換言すれば、時にぶれそうになる自分への叱咤だろう。
「やっぱり色々と意見がありますし、自分でも考えたり迷ったりは自然と出てきちゃうんで。でもそこを、自分のテニスは何なのかって考えて。やっぱり他の人と違うところがすごい大事なので、そこは今後も、絶対に大事になってくるかなと思います」
そのような望月の信念を裏打ちしてくれたのは、今年2月からコーチに就任した、ダビデ・サンギネッティかもしれない。添田豪やディナラ・サフィナらの指導経験を持つ元世界42位は、「すごく僕のことを信じてくれる」と望月は言う。
同時に、ジュニア時代はコーチに頼っていた戦術立案も、今は助言を得つつ基本は自分で行なっている。
「試合をするのは自分なので、そこは常に自分がしっかりしたいと考えています」
その指針が、望月のスタイルに一本芯を通している。
ジュニア時代の栄光に捕らわれることなく、今大会でも「ここで優勝したというのは他人事のよう」と、感傷に浸ることもない。ただ、己のテニスを貫いたその先で、少年時代にトロフィーを掲げた舞台に戻ってきたのは、決して偶然ではない。「やっぱり“テニスの聖地”と聞いていたので。ジュニア時代から、『ウィンブルドン、ウィンブルドン』と言っていました」
照れた笑みと共に島袋がそう言ったのは、予選初戦を突破した時だった。
グランドスラム予選デビューが、ジュニア時代からの憧れの地。芝でのプレー経験はほとんどないが、「僕のフラット気味のフォアは、芝で効く」との手応えを、手のひらに残していた。
高校時代までのシングルス戦績は、「インターハイのベスト8」が最高。
同期には世界で活躍するジュニアも多い中、「高卒でプロになる自信はなかった」とも明かす。
それでも早稲田大学進学後も、「プロになる」の決意と、「自分の武器はフォアを生かした攻撃力」の信念は貫き通した。
「大学1年目は全然勝てなかったんですよ、ミスが多くて」と認めるも、「自分のテニスは絶対に変えたくなかった。先のないテニスはしたくなかった」と言う。
「監督やコーチはヒヤヒヤしたと思います」と申し訳なさそうにこぼすが、結果的に2年時に全日本大学選手権を制したことで、懐疑の声も封じてみせた。
同時に在学時から、卒業後のプロ転向に向け、準備を進めていたという。ナショナルチームの学生枠に選ばれたため、人脈が広がったことも大きい。大学の先輩でもある佐藤文平氏に、スポンサーやチーム編成について相談もした。
大学講師に軸足を置く佐藤氏にしてみれば、自由に使える時間は限られる。ただ、プレーのポテンシャルや体格、そして人間性やカリスマも含め、島袋に大いなる可能性を感じた。過去に大卒でプロになった選手は数多くいるものの、それら先人たちの経験が「紡がれていない」ことに危機感を覚えていたともいう。
「大卒でプロになった選手にとって一番危険なのは、すぐ大海原(=ツアー)に出てしまうこと」
常々その点を危惧していた佐藤氏は、コロナ禍の時間も活用して資金を調達し、クルーを集め、海図を引いた。コーチのトーマス嶋田にトレーナーの大瀧レオ祐市、そしてフィジカルコーチの松田浩和は、いずれもATPツアー帯同経験者である。
プロ転向から3年で到達したグランドスラム本戦は、綿密に計算した「最短航路」の帰結。その港がウィンブルドンだったのは、己のスタイルを貫く島袋の実直さが、憧れの地を真っすぐに指したからだ。
異なる道を歩んできた望月と島袋に通底するのは、一本芯の通った信念と、その決意を信じる周囲の助力。そしてここをゴールではなく、スタートラインと見なす視線だ。
現地取材・文●内田暁
【PHOTO】ウインブルドンJr.を制した望月慎太郎の基本に忠実なリターン連続写真!
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