バンパーにヒザがねじ込まれる大事故から世界1位へ。90年代復活の勇者となったトーマス・ムスター【テニス復活物語】

バンパーにヒザがねじ込まれる大事故から世界1位へ。90年代復活の勇者となったトーマス・ムスター【テニス復活物語】

試合の帰り、飲酒運転の車に衝突され大事故に遭ったムスターは、その6年後、全仏のカップを掲げた。(C)Getty Images

ドミニク・ティームの悲願の全米優勝から遡ること25年前、初めて母国オーストリアにグランドスラムの優勝のトロフィーを持ち帰った男がいる。1980年代後半から90年代にかけて活躍した選手であり、今年1月に新設された国別対抗戦ATPカップで母国代表監督を務めたトーマス・ムスターだ。彼は「クレーの王者」とも呼ばれ、通算タイトル44勝のうち42勝はクレーコートでタイトルを獲得した。そして、キャリア途中の悲運の交通事故から輝かしく世界1位にまで返り咲いた不屈の男とも呼べるだろう。

 粘り強いフットワークとパワフルなスピンボールを武器に、ベースライン上でゲームを支配する猛者であった。プロ5年目となる1989年の全豪で初のベスト4を経験し、まさにキャリアの上昇気流に乗り始めたところ、悲劇はおきた。春のマイアミオープン準決勝でヤニック・ノアを破り、決勝は世界1位であるイワン・レンドルとの対戦が決まった2時間後…まさかの事態に巻き込まれる。

 それは試合後の帰り道。車のトランクから荷物を取り出そうとしたとき、無免許で飲酒運転をしていた男の車に後方から衝突され、バンパーに左ヒザを捻じ込まれてしまったのだ。その衝撃は、前十字靭帯と内側側副靭帯を引き裂き、無論レンドルとの決勝には出場できなくなってしまった。全豪準決勝で敗れたレンドルに対するリベンジマッチとしても、様々な思いで挑むはずだった決勝戦。翌週にはトップ10入りも決まっていた彼が病院のベッドで天井を見上げ、いったいどんなことを考えたのだろうか?
  筆者自身、今までヒザの靱帯を負傷した選手のキャリアが、悲しくも引退の決断を速めた事例を何度も見てきたことがある。術後に回復したとしても腫れが頻繁にプレーの邪魔をし、俊敏な動きを妨げる原因となってしまうからだ。そして精神的に今までのプレーとのギャップに苦しみ、再浮上したいと願う心が削り落とされていくようにも見えた。

 しかし、この大怪我は、奇しくも強靭なフィジカルを作り上げるための重要な“きっかけ”となる。不屈の男は驚くほど立ち上がるペースも速かった。彼は、術後すぐに容赦ないペースで負傷した左膝以外の部分をトレーニングし始め、わずか半年で大会復帰にこぎつけた。リハビリ期間には「ヒザが使えないなら座って打てばいい」と、テニスへの猛烈な情熱から、左足をフラットに置ける特別な椅子を作りだし、決してボールを打ち続けることを止めなかった。
 「あの時は最もひどい状況だったかもしれない。ひどい状況ではあったが、それはまた私がやりたいことに集中し、再び基礎を固める機会となった。乗り切ることができて、とても幸運だよ」

 そう振り返るムスターは、いつも現実を拒否することなく自身が望んだテニス生活に全神経を注ぎ続けた。その功績が認められ1990年にはATPカムバック・プレーヤー・オブ・ザイヤーに選ばれる。こうして勝利の道を再び歩き続けたクレーの王者は、1995年の全仏でオーストリア人初のグランドスラムタイトルを獲得。翌年には念願の世界ランキング1位に上り詰め歓喜の瞬間に沸いた。交通事故から8年後となる1997年のマイアミオープンでは、悲運と呼ばれた場所で優勝を収め「貴重な勝利」を勝ち取ることに成功。そしてこの優勝が彼のキャリアにとって44回目、最後のツアータイトルとなった。
  後に公式な引退表明はなかったものの、1999年に「ホリデーに行く」と言い残し引退。しかし「競技テニスの世界で再び生きたい」と43歳で現役復帰を果たし、約2年の間に19試合を戦った。そのうち2試合で白星をあげたものの2011年10月に再び引退を発表。

 現在、不屈の男はテニスだけでなくワイン製造やファッション界にも進出し、自身の情熱を多用多種に注いでいる。これほどテニスにのめりこんだ彼だからこそ、また何事も時間をかけながら研究熱心に成果を出すことだろう。

「人生には願いがあり、夢があり、時に成功が訪れる。僕たちはそれを信じ続けなければいけないんだよ」

 彼はスポーツに限らず、私たちが生きるために必要な指針を教えてくれているような気がする。

文●久見香奈恵
WTA125大会ダブルス優勝、全日本選手権女子ダブルス優勝、混合ダブルス準優勝といった戦績を挙げた元プロテニスプレーヤー。2017年に現役引退後はテニス普及活動や、イベント出演、WEB執筆等を行なっている。

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