AOSデータ 代表取締役社長 春山 洋

AOSデータ 代表取締役社長 春山 洋

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今年1月26日、19回目のBCN AWARDの表彰式が行われた。システムメンテナンスソフト部門で9年連続受賞されたAOSデータの春山社長に乾杯の音頭をとっていただいたこのときの春山さんのスピーチは私にとって忘れられないものとなった。この連面の紙面右下に小さく掲載している「ものづくりの環」の詩を引用してくださったのだ。私自身の哲学を込めたこの詩に共鳴していただけたことに大きな感動をおぼえるとともに、あらためて「三方よし」の精神に思いを馳せた。(本紙主幹・奥田喜久男)
●技術力を鍛えられたソードの営業時代
 AOSデータは9年連続、システムメンテナンスソフト部門でBCN AWARDを獲得されましたが、春山さんは、かつてソード(現・東芝プラットフォームソリューション)に在籍しておられたのですね。
 はい。AOSに移ったのが50歳のときですから、少し変わった経歴かもしれません。
 若い頃にさかのぼってお話をうかがいたいのですが、大学では何を専攻されていたのですか。
 武蔵工業大学で経営工学を学び、4年生のときに入った研究室では、COBOLで物流プログラムを組むという研究をしていました。この大学の経営工学科にはOKITACのミニコンがあって、1年生のときから自由にさわらせてくれたんです。当時としては、けっこう先進的でしたね。
 それがコンピュータとの出会いですか。
 そうですね。大学時代の半分くらいはコンピュータで遊んでいた感じです。簡単なシミュレーションプログラムをつくって、紙テープにパンチしていって、それを継いだり剥がしたりしていました。そういうことが面白かったですね。
 最初に就職されたのは?
 コモタ技研(現・コモタ)というガソリンスタンド専用のオフコンをつくっているベンチャー企業に入社し、4年間、名古屋でガソリンスタンドを回る営業をしていました。
 1982年にソードに入社したのは、当時、彗星のごとく現れたパソコンに興味をもったことがきっかけです。シャープのMZシリーズなどが面白いなと思っていたら、ソードの椎名堯慶さんがITベンチャーのさきがけのように登場しました。そこで、名古屋での仕事を辞めて東京に戻り、ソードの入社試験を受けたのです。
 あの頃、椎名さんやソードという会社にはどんな印象をもちました?
 椎名さんは防衛大学に入ったもののすぐ辞めて東海大に入学し直して、その後、仲間3人で起業されたわけですが、そんな経歴もあってか、シリコンバレーの匂いがしましたね。ソードの前にいたコモタもベンチャー企業でしたが、よりベンチャーっぽいな、と。
 ソードに入ってからは、どんな畑を歩んでいかれたのですか。
 私は営業しかやったことがありません。コモタでの仕事も営業ですし、ソードも営業です。ソードでは、OEMの営業からスタートしました。
 ソードのOEMはどんな形でしたか。
 OA系で一番大きな売り上げを占めていたのは、富士ゼロックスの「TALKシリーズ」というものでした。私が担当していたのはFA系のコンピュータで、ウエハーの制御装置やCAD、NCマシンの制御系など、どちらかというと硬いほうでしたね。
 ソードの営業は、当時どんなスタイルで活動していたのですか。
 多くの引き合いをいただけるのですが、お客様もかなりの専門家であるため、営業自身が勉強して伺わなければなりません。ソードでは、技術者は営業に同行しないからです。これにより、営業マンの技術力が高まりました。開発部門は千葉にあり、24時間、365日、開発に没頭している人たちでしたから、営業がマニュアルを読んでは、すべての顧客対応をするという形だったのです。それは、椎名さんの方針でもありました。
●新しいメディア産業のエコシステムを構築する
 ソードは飛ぶ鳥を落とす勢いで伸びたものの、1985年には東芝に買収されます。伸びていく過程で失速する形になったわけですが、この点についてどう思われますか。
 まずソードが急成長した理由は、世の中のニーズと提供する技術がマッチしたことにあると思います。ハードウェアのアーキテクチャは、非常に優れたものでした。そして、「PIPS」という簡易言語を開発したことにより、多くのユーザーにコンピュータを提供することができました。この二つの要因によって、年商200億円を達成できたわけです。
 ところが、ベンチャー企業で年商200億円ともなると、資金繰りがつきにくくなるものです。それを切り抜けられなかったということは、やはり謙虚さが足りなかったのかもしれませんね。
 謙虚さとは?
 たとえば、仕入れの際に“上から目線”で対応してしまうと、どうしてもいろいろな軋轢が生まれます。そこが、綻びの始まりではないかと思います。
 急成長ベンチャーの落とし穴ですね。
 それから椎名さんは、後に「やはり、オープンポリシーにすべきだった」と言っていました。PIPSをクローズにせず、もっと世の中に広めればよかったと。それもソードが買収される一因だったのかもしれません。
 謙虚さとオープンな姿勢が必要であった、と。
 そこのところを越えられれば、ソードはもう一つ大きな企業になれたのではないかと思います。でも、東芝に吸収されるという経営判断は悪くはなかった。
 それはどういう理由で?
 東芝から役員として5名の方がこられたのですが、みなさんとても素晴らしかったからです。大企業っぽくない人たちで、会社をどんどん改革していこうという力強さを感じました。東芝が強いというのではなく、個々の人が強い。やはり、大企業は人材が豊富だと感じましたね。
 東芝の人たちが来たことで、どの辺りが大きく変わりましたか。
 部長以上の社員は経営管理資料を全部閲覧することができたのですが、キャッシュフローの状況まで知らされるようになったことで、ビジネスの視野が格段に広がりました。ベンチャーでいる間は、キャッシュフローなんて考えたことがなかったのが実際のところですから(笑)。その後、大きな商談に際しては、資金繰りを考えながら進めるということを事細かに教わりました。  それから、金額変更のプロセスについてエビデンス(根拠)をきちんと残すことも徹底的に叩き込まれました。たとえば、単価50万円の製品を納入したものの不具合が出たためにその部分を改良し、顧客の了承を得て、45万円に値引きして販売した場合、受注伝票を修正しただけで大丈夫だろうと考えて処理をしたら、経理担当の役員からとても厳しく指摘されたことがありました。上司の了解も得ていたので問題はないと思っていたのですが、そうしたやり方は不正につながると教えられました。これも、ベンチャーの時代には考えもしないことでした。
(つづく)
●愛用のペン
 AOSテクノロジーズが、5年前に記念品として50本限定でつくったもの。それ以来、ずっと使っているお気に入りの品だ。「ノベルティにしては、けっこう奮発しました」とのこと。
心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。