コンテンツを所有できない時代……デジタル時代の消えるコンテンツ

コンテンツを所有できない時代……デジタル時代の消えるコンテンツ

image by Gerd Altmann via pixabay

◆芸能人の逮捕で封印されるコンテンツ

 3月13日に「ピエール瀧容疑者を逮捕」というニュースが流れてきて驚いた。最近の邦画では、なくてはならない俳優だったし、『アナと雪の女王』のオラフ役の活躍も印象的だった。そのため逮捕のニュースを見た瞬間に思ったことは「邦画のかなりの作品が引っかかるんじゃないか?」だった。

 そもそも俳優が逮捕されたからといって、作品を封印しなければならないのかという問題がある。その是非は今回、脇においておく。今回は、デジタル時代の消えるコンテンツについて書きたいと思う。

 件の逮捕報道のあと、ネットを見ていて目撃したのは「自主回収や配信停止で入手できなくなる」「物理メディアを持っているから安心」といった意見だった。

 ある日を境に、それまでアクセスできていたコンテンツが一斉に世の中から消えてしまう。それを避けるには、社会の動きから切り離した自分だけの方法でコンテンツを持っていなければならない。その方法として物理メディアは最適である。

 デジタル時代に逆行した、極めてアナログ的な所有の方法に思える。物理媒体の方が有事に強い。こうした意見が出るのには、現在の電子コンテンツの「所有」についての問題がある。

◆所有できない電子化時代のコンテンツ

 遥か過去の時代、音楽や演劇は、その場限りで見るものだった。物語も、語り部から聞くものだった。そうしたコンテンツを本や絵画という形で所有できるのは、一部の王侯貴族に限られていた。コンテンツは一過性のもので、所有するものではなかった。

 その後、印刷技術の進歩や産業革命によって、コンテンツの大量複製の時代がやって来た。物を効率的に複製する技術が進み、多くのものが量産された。本は大量に印刷されて、ベストセラーという概念が誕生した。音楽はレコードに封じ込められ、演奏者がいなくても聴けるようになった。演劇もフィルムに焼き付けることで、俳優なしで見ることができるようになった。そして、人々がコンテンツを所有する時代へと移行していった。

 次に大きな波が来たのは、デジタル化である。非常に安価に、劣化なしで複製できる方法が誕生した。所有はさらに簡単になるように思えた。しかし現実は違う方向へと向かい始めた。

 たとえば、Amazonをはじめとする多くの電子書店では、電子書籍を購入した場合は使用権が付与されるだけで、自分のものになるわけではない。何らかの理由で配信元が倒産したり事業撤退を決めれば、その本を読むことはできなくなる。

 また、所有の概念はさらに変化しつつある。「サブスクリプションサービス」の流行だ。最近多く見られる音楽や映像の月額定額制サービスでは、特定のコンテンツの配信が終われば、そのコンテンツはサービス内で視聴できない。一時的な閲覧が許可されているに過ぎない。

 コンテンツが爆発的に増えて、ユーザーが1つのコンテンツにかける時間が大幅に減った。その結果、所有に対する行動が大きく変わった。1つ1つのコンテンツを買わないスタイルが徐々に普及してきている。所有せずに、いつでも必要な時にアクセスできる権利のみを購入する方法に移行しつつある。

 こうした「所有しない」ことが前提の時代において、自分がアクセスしたいコンテンツが封印コンテンツになってしまうと入手方法がなくなる。配信元から一元的に管理されているがゆえに、その上流が配信停止を決定すると、一般の人が正規の方法でコンテンツに触れることができなくなる。

 本やレコード、CDやDVDといった物理メディアが大量生産されていた時代は、それらのメディアが分散バックアップの保存媒体として機能していた。そのため、権利元が倒産したり販売を停止しても、複製されたコンテンツにアクセスすればよかった。

 電子化時代になり、コンテンツへのアクセス手段は、脆弱になったとも言える。

◆情報の所有意識の変化

 情報の所有意識の変化についても触れておきたい。筆者の体感だが、この20年ほどで、情報の所有の概念が大きく変わってきたように思う。

 インターネットに触れ始めた最初の頃は、ネットで見かけた必要な情報を全てローカルに保存していた。あるいはブックマークを保存していた。それがいつからか「検索すればいいや」になってきた。そして「検索して似たような情報が何か見つかればいいや」に変化していった。

 これは「情報に対する感覚」だが、「コンテンツに対する感覚」も近いものがある。

 たとえば音楽はyoutubeで聞くことが多くなってきている。そうなると「特定の曲を聴く」という行動以外に、「○○のような感じの曲を聴く」という視聴が増える。

 情報やコンテンツに対して、似たもの、コピーされたものも含めて「近いものならそれでいい」という摂取スタイルだ。アクセス可能な情報が増えすぎた結果、個々のコンテンツに対する執着は、過去に比べれば減った。

◆私たちに過去にアクセスする権利はあるのか?

 コンテンツが膨大になり、それらに対する接し方が変わってきた。それと時を同じくして、コンテンツへのアクセス方法が脆弱になってきた。情報が溢れる時代であると同時に、個々の情報を消すのが容易な時代になってきた。無限に複製可能な電子化時代になったのにである。

 私たちは、デジタルコンテンツは、意外に寿命が短いことに気が付きつつある。

 たとえばWeb上の情報は、時間とともに消える。無料ホームページサービスなら、その運営元が手を引けば情報はなくなる。企業サイトや個人サイトも、その企業や個人が維持費を止めれば、サイトごと消滅する。

 画像や動画を保存していても、それを表示したり再生したりするソフトウェアやハードウェアがなければ開けなくなるリスクがある。実際に、過去の時代に使われていた画像ファイルの中には、開けるソフトが古いものしかないケースもある。

 また家庭用ゲームは、そのハードウェアがなくなれば遊ぶことができない。中には有志がエミュレータを開発して、現在のハードウェアで動かすことができるようにする場合もある。しかし、そうした動きがなければ、そのままアクセス不能になる。

 パソコン用のソフトウェアも同じだ。あるCPUでしか動かないものもある。OS依存の命令を使っており、その命令が最新OSからなくなれば実行できなくなるケースもある。スマートフォンのアプリケーションでは、最新のOSに追随してアップデートしなければ、ストアから削除されることもある。

 意識的に所有するだけでなく、視聴環境を維持しなければ、デジタル時代のコンテンツは、人間の寿命よりも短い期間でアクセス不能になる。過去のコンテンツにアクセスするには、何らかの自衛が必要な時代になってきたと感じている。

<文/柳井政和>

やない まさかず。クロノス・クラウン合同会社の代表社員。ゲームやアプリの開発、プログラミング系技術書や記事、マンガの執筆をおこなう。2001年オンラインソフト大賞に入賞した『めもりーくりーなー』は、累計500万ダウンロード以上。2016年、第23回松本清張賞応募作『バックドア』が最終候補となり、改題した『裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬』にて文藝春秋から小説家デビュー。近著は新潮社『レトロゲームファクトリー』。

関連記事(外部サイト)