<コラム>司馬遼太郎に導かれ、中国・蘇州の城門跡を探索

<コラム>司馬遼太郎に導かれ、中国・蘇州の城門跡を探索

1987年に初めて蘇州に来てから早30年、蘇州高新区に12年間住んだ。その時に蘇州の事を少しでも知ろうと再読したのが、司馬遼太郎「街道を行く:中国江南のみち」である。写真は筆者提供。

1987年に初めて蘇州に来てから早30年、蘇州高新区に12年間住んだ。その時に蘇州の事を少しでも知ろうと再読したのが、司馬遼太郎の「街道をゆく:中国江南のみち」である。当時、小生の蘇州に関する知識はこの本から得たものだけであった。司馬遼太郎が1981年2回目の訪問時の記録でもある。司馬先生は春秋時代の東門はホウ門(ホウ=草かんむりに封、feng-Men)としているが、それは間違いで、ホウ門はその後戦国時代に出来たと分かった時、少しだけ優越感を感じた。

今まで、司馬先生が思った「蘇州旧城の外郭を1周したい」を12年の駐在生活中に何度も繰り返し、自分なりにこの南北4.5キロ×東西3.5キロの城壁と城門について知見を得るに至った。中国の城は日本と異なり、町全体を城壁に囲んだ空間を城と呼んだ。

「図1」は、南宋時代の蘇州の街並みを記録した「平江図」を元にして清朝時代の石碑を書き写したもので、不思議とGoogleからダウンロードした地図とほぼ同じである。つまり、時間は2500年間止まっているのである。この城内を守るように城壁が周囲16キロ繋がり、その出入り口として城門が築かれた。城壁は2丈4尺(7.2メートル)の塀にさらに6尺(1.8メートル)の馬柵があり、合計9メートルの高さがあったと記録されている。

蘇州は長い歴史と文化を持つ都市である。春秋時代呉王闔閭(前514年〜前496年)が周囲1.5キロしかなかった小さな都を周囲20キロもある「闔閭大城」に拡張してから、既に2500年経っている。闔閭は宰相の伍子胥に命じて築城の大事業に着手、そのコンセプトは風水を十分に考慮した「相土嘗水、象天法地」である。土を観察し水をなめるように試探、天を真似るように地を手本とし、「土・水・天・地」の4つを支配する。風水から八卦(八風)を考え、出入りの水陸門は八つとした。門からは八つの風が入るのだ。

現在、城門の名前が残っているのは、北から時計回りに平・斉・婁・相・ホウ(ホウ=草かんむりに封)・南・盤・胥・金・ショウ(ショウ=門構えに昌)の10門である。呉王夫差(闔閭の子)の時代には、平・斉・婁・相・蛇・盤・胥・ショウの8門があった。その後漢の時代以降に赤門が増えたが短期であった。唐の時代は8門、北宋時代は5門(斉・婁・盤・胥・ショウ)、1080年範仲俺がホウ門を開き6門、1229年の平江図は胥門を閉じ5門、太平天国時代は斉・婁・盤・胥・ショウの5門になった。東門が少ないのは湿地帯が多く、不便なのが理由であろう。その後、民国時代に新ショウ・金・南・新胥が新設され、新ショウ門は金門完成後破壊。新胥門は胥門の北50メートルの位置(万年橋の延長)にあった。1949年にはこの新胥門を入れて、11門あったと言われるが、その後新胥門は無くなり、現在の10門になっている。「図1」に14門の位置を示すが、時代時代にあわせ、増えたり・減ったりした歴史がある(黄色は現在名が残る10門)。

城門として現存するのは、盤・胥・金だけである(写真1・2・3)。ショウ門は最近再現されたものである。蘇州は過去10度に渡る大乱で消滅しようとした経歴を持つ。一つは元の時代金兵の侵攻で3日3晩燃え続き、城郭は多く破壊された。最後が清代の太平天国の乱後である。その後、蘇州は経済文化を含め大きく時代から取り残された。幸い、現存する盤・胥・金門周辺には昔の城石の積み方(品字積み)が見られる場所があるが、最近の蘇州都市開発計画の波で、多くが新しく改造され、その面影が見られなくなったのが非常に残念である。歴史をそのまま残すという考えの前に、きれいな観光地にしようとする都市計画に反対したい。古いものを現状保存するのが責務でないかと考える。

小生が初めて蘇州に来て訪問したのがホウ・胥の東西の門であった。ホウ門は最初に宿泊した蘇州飯店から歩いて行ける距離で、司馬先生の本にあったからだ。門はなかったが、ここが姑蘇の東門かと思い、そして西門にあたる胥門の姿を見た時に、2500年前の状況が目に浮かぶ感じがした。ただ春秋時代は、現在の石を積上げる方式でなく、硬い土に突き固める土塁(版築方式)であった。

春秋時代にあった蛇門、この位置は定かでない。記録によると南堀に面したとか、ホウ門南部とか幾つかの説がある。現在城郭の南東部に古そうな高楼(赤門)ができたが、昔は無かった。ここは蛇門にあらず、平江府中央から南下し、烏鵲橋を通ってちょうど蘇州城の真南にあたる所が蛇門になると断定できる。かつて杭州まで行く船着き場があった辺りである。この門はちょうど南大門にあたる。寺院を含め、中国では南北を重要視する限り、必ず南大門が存在した。ただ、南門としても使用頻度は盤門が勝り、宋時代には閉じられた。

■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。

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