<在日中国人のブログ>私が知り合った、「2000年の神秘の国」を世に知らしめた日本の和尚

<在日中国人のブログ>私が知り合った、「2000年の神秘の国」を世に知らしめた日本の和尚

しばらく前、「中国新疆36年国際協力実録」という題の書籍が私の仕事場に郵送されてきた。日本人僧侶の小島康誉さんからだった。

しばらく前、「中国新疆36年国際協力実録」という題の書籍が私の仕事場に郵送されてきた。日本人僧侶の小島康誉さんからだった。

最初に小島さんの名を聞いたのは2004年のことだった。その時は、日本のあるテレビ局が新疆ウイグル自治区でシルクロード関連のドキュメンタリーの映像を撮影したいということになった。私は当時、日本で映像制作の勉強をしていた。偶然のチャンスから、私は制作スタッフの一員になることができた。そして新疆に到着した。現地で文化財を管轄する文物局の役人が、私にこんなことを言ったのだ。「新疆ウイグルでは、地元当局の指示に従っても、うまく行かないことが多い。でも、あなた方は日本から来た撮影クルーだ。なにか問題があったら、『小島』という名を出してみなさい。そうすれば、うまくいくかもしれない」と。実際に試すことはなかったが、新疆ではただ一人の日本人の名がそんなにもすごい威信を持っているのかと驚いた。私にとって「小島康誉」という4文字の日本人人名が、強い印象とともに記憶に残った。

その時から、私は「小島康誉」という人物に強く関心を持つようになった。情報が集まるにつれ、私はこの「小島康誉」という人物のこれまでの生涯が、まるで物語だと強く感じるようになった。少々の時間を割いて描写することはとても無理だ。というのは、彼は3人分の「人生」を歩んできたからだ。一つは成功した起業家、そして敬虔な仏教徒、さらに36年間にわたり自らつとめてきた国際交流の使者だ。もし彼を全面的に紹介しようとするなら、どうしても三つの角度から活動を整理していかねばならないことになる。

小島康誉さんは1942年、愛知県名古屋市で生まれた。特段の代わりばえはしない、勤め人の家だったという。そして24歳の時、宝石販売会社を起業した。ゼロからのスタートだったが26年間の奮闘が実り、日本国内で160店舗を展開するに至った。51歳になった1993年、創業したツルカメコーポレーションは名古屋証券取引所第2部に上場した。ところがその4年後、彼はきっぱりと社長を退任した。周囲は騒然となったが、小島さんは完全引退を宣言した。会社は今も「エステール」として繁栄している。


彼が仏教徒になったいきさつと言えば、それ以上にまるでドラマだ。小島さんは41歳の時に、全国の企業経営・管理者たちによる「釈迦の仏蹟巡礼の旅」という旅行団に参加した。そして、インドで釈迦牟尼仏が仏法を説いた場所の一つとされる霊鷲山を訪れた時に突然、2500年前の釈迦牟尼仏の説法の声を明瞭に聞いたという。同行の人は、だれもそんな体験をしなかった。小島さんだけに聞こえた。釈迦牟尼仏の説法を聴いた瞬間、小島さんの両眼からは涙がどうしようもなく溢れ出て止まらなかったという。こんな経験をしたことで、小島さんは仏教に強くひかれるようになり、日本に戻ってから佛教大学の通信教育を受けることにした。経営をしながら修行もするという日々が続いた。大学3年生の時に、とても熱心だということで教授の推薦をもらい、小島さんは得度した。経営者にして学生、しかも僧侶になったわけだ。1988年に卒業した際には、論文が優秀だとして学長から表彰された。その後の小島さんは、片手に電卓、片手に数珠という、僧侶兼ビジネスマンになった。

世の中のありとあらゆる物事は縁というものでつながり、補いあっているということなのか。もしも小島さんが宝石を扱う業者でなかったら、1982年に新疆ウイグル自治区に行くことはなかったかもしれない。彼が新疆に行ったのは、質が良くてしかも安価な宝石の仕入れ先になるのでは、と期待したからだ。そして、小島さんに仏教でいう特別の機根、つまり仏の教えを受け入れる資質がなければ、1986年に初めてキジル千仏洞を訪れた際に、すぐさま修復のための資金を支援することはなかっただろう。これらの「因」がなければ、小島さんの人生における第3章も始まらず、国際交流の使者となることもなかったはずだ。

小島さんは初めて訪れたキジル千仏洞を「人類共通の文化遺産だ」と直感したという。現地の人々が貧しい中で保護活動を何とか続けていることも知った。そして、現地職員が冗談に「10万元を寄付してくれたら、小島さんの専用窟を作ってあげます」というのを聞き、専用窟は要らないが、10万元は寄付すると即答した。当時(1986年)の為替レートでは、日本円で約450万円に相当する金額だった。

1987年には、「日中友好キジル千仏洞修復保存協力会」を立ち上げた。そして千仏洞の保護事業を推進するために、日本各地を駆け回った。小島さんは当時を振り返り、「多くの人はキジル千仏洞のことを知りませんでした。寄付金集めには苦労しました」と語る。それでも小島さんは、1億円以上の寄付金を集め新疆政府に贈呈した。キジル千仏洞は2014年に世界文化遺産となった。

小島さんは新疆ウイグル自治区文化庁の幹部職員からたまたま、ニヤ遺跡のことを聞いた。ニヤ遺跡とは、前漢(紀元前206-8年)の歴史を記した「漢書」に記載がある精絶国の遺跡だ。場所はアジア内陸部のタクラマカン砂漠。往時も小さな国で、世帯数は400戸余りで人口は3000人余りだった。しかし、シルクロードの要所にある重要な街だった。「商人が集まり、人々は富み繁栄した」と言われたという。しかし5世紀までには砂漠の中に蜃気楼のように消えてしまった。

「精絶国」が歴史の舞台に再び登場したのは2000年近く後の1901年になり、ハンガリー出身でしばらく後に英国に帰化する考古学者・探検家のオーレル・スタインが、古代の木簡数片の出どころを調査したことがきっかけだった。スタインは荒涼たる砂漠のただ中で、意外にも規模の大きな遺跡を発見した。住居跡が多くあった。スタインは100キロメートルほど南の尼雅(ニヤ)という街の名にちなみ、この遺跡をニヤ遺跡と名づけた。しかし、彼の行為は少なくとも現在の視点から見れば盗掘だった。多くの貴重な文化財が欧州に運ばれていった。しかしスタインの活動により、ニヤ遺跡は大いに注目されることになった。国際社会の各界は、大発見に沸き立った。

そしてスタインは、ニヤ遺跡のある仏塔近くから漢字が書かれた一片の木片を発見した。その木片にははっきりとした墨痕の隷書で「漢精絶王承書従事」と書かれていた。さらに考証を続けた結果、ニヤ遺跡は「漢書・西域伝」に記載のあるシルクロード南道の重要なオアシス国家、「精絶国」の遺跡と確認された。


スタインがこの地を訪れてから100年近くの月日が流れた。その後、多くの考古学者がニヤ遺跡に足を運んだ。しかし、全面的かつ深い研究はまだ行われていなかった。新疆ウイグル自治区の担当幹部は小島さんに、中国の考古学者は早くからニヤ遺跡を調査したいと考えてきたが、資金問題が一向に解決できていないと訴えた。小島さんはこの遺跡に興味を持ち、自治区文化庁に対し、日中共同でニヤ遺跡を調査したいと自ら進んで提案した。

中国政府がこの計画を許可したのは1988年だった。日中合同の調査隊が結成された。日本側隊長は小島さんが務めた。この調査隊は先進的な科学技術の適用を試みた。調査時間も長く、多くの収穫を得ることができた。1988年から97年までの10年に満たない時間に小島さんは1億9000万円を拠出して、前後9回のニヤ遺跡学術調査を実現させた。中でも1995年の第7回学術調査では、ニヤの王侯貴族の墓を発掘し「五星出東方利中国」の文字が織り込まれている、肘を覆う錦の布を発見した。この布は、20世紀における中国考古学の最大の発見の一つとされている。2002年にはこの布が、展覧会への出展目的の場合でも国外(香港、マカオ、台湾を含む)への持ち出しが禁止されたことでも、中国がこの布をどれだけ重視しているかが分かるだろう。

小島さんは活動回数を重ねるにともない、新疆に対する愛情を強めていった。彼は累計100件以上の現地プロジェクトに巨額の資金援助を行った。新疆大学では「小島康誉奨学金」が設けられ、援助金額は2018年までに日本円で累計4700万円以上に達した。さらに小島さんの寄付により、貧しい家の子の就学を支援するための中日友好希望小学校5カ所が設立された。新疆の人々が、この日本から来た「和尚様」を大好きになっていったのはもちろんだ。小島さんには新疆ウイグル自治区人民政府顧問、ウルムチ栄誉市民、新疆大学名誉教授の称号が次々に与えられた。小島さんは新疆の地で、最も有名で最も尊敬される外国人の一人になった。


私が初めて小島さんにお会いしたのは2018年秋だった。私の会社は、ニュース番組向けの撮影業務も行っている。私は取材の現場に行って初めて、取材される人が小島さんと知った。私が、シルクロードを紹介するテレビ番組の撮影した際のエピソードを話すと、小島さんはとても意外だったようだ。その年はちょうど、ニヤ遺跡調査開始30周年で、中国では新疆博物館で記念行事として「ニヤ・考古・物語――中日ニヤ考古30周年成果展」が開催され、日本では「中国新疆36周年国際協力実録」が出版された。同書はニヤ調査のきっかけとなったキジル千仏洞の修復保護活動と、ニヤ学術調査に続く活動と言える日中ダンダンウィリク遺跡調査、および新疆の文化財などについて紹介している。同書は小島さんが1982年以来続けてきた、国際協力活動の実録だ。

私は小島さんから送られてきた「中国新疆36周年国際協力実録」を読もうとした。その時、便箋が同封されていることに気づいた。便箋には「私の妻は校正を手伝ってくれたのですが、その時に妻は『あなたも76歳になったのですから、これが最後の出版になるでしょうね』と言いました。たとえそうであっても、私はこれまで通りに社会のために微力を尽くしたいと思います。私の遺骨は新疆のタクラマカン大砂漠に埋めてほしいと思います」と書かれていた。

読み終えてから長い間、いろいろと考えてしまった。人として、どのように生きれば、その人生に意義があったと言えるのだろうか。だれでも、物心がついてからこの問題を考えたことがあるはずだ。結論は人それぞれだ。そして小島さんは、自分の行動で回答を出した。彼は自分の生きている時間を用いて社会にできるだけ多くの貢献をしようと務めてきた。自らができる限りの努力をすることで、自らの人生の価値を実現したということだ。

よく「悠久の歴史」などという言い方をする。しかし、長い時間が経過するだけで歴史が作られるわけではない。その時代、その時代を生きた人が、決して長いとは言えない自分の生涯を使って、それまであった歴史に何かをつけ加えていく。そんな「人の営み」があってこそ、歴史は作られていく。小島さんの生き方に触れて、そんなことも考えてしまった。

■筆者プロフィール:呂 厳
4人家族の長男として文化大革命終了直前の中国江蘇省に生まれる。大学卒業まで日本と全く縁のない生活を過ごす。23歳の時に急な事情で来日し、日本の大学院を出たあと、そのまま日本企業に就職。メインはコンサルティング業だが、さまざまな業者の中国事業展開のコーディネートも行っている。1年のうち半分は中国に滞在するほど、日本と中国を行き来している。興味は映画鑑賞。好きな日本映画は小津安二郎監督の『晩春』、今村昌平監督の『楢山節考』など。

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