<コラム>幻に終わった沙市の日本人租界地を訪ねて

<コラム>幻に終わった沙市の日本人租界地を訪ねて

湖北省荊州市は、上海と四川省成都市を結ぶ東西の線と北京と海南島を結ぶ南北の線が交わる地点にある。まさに中国の中心部にある。現在の荊州市周辺は長江文明が栄えた地であった。

湖北省荊州市は、上海と四川省成都市を結ぶ東西の線と北京と海南島を結ぶ南北の線が交わる地点にある。まさに中国の中心部にある。現在の荊州市周辺は長江文明が栄えた地であった。6000年前の大渓文化や屈家嶺文化の遺跡が出土している。また春秋戦国時代、楚の首都「郢」はこの周辺にあった。秦が楚を「荊」と改称したのが地名の始まりである。古代の地域名である荊州は周王朝以来いわれた九州のひとつで、「尚書」の夏書・禹貢によると冀州、?州、青州、徐州、揚州、荊州、予州、梁州、雍州を指した。

清朝以降、長江河港である沙市が発達した。日清戦争後、1895年下関条約で沙市は開港、他に重慶・蘇州・杭州・沙市の4港の開港が承認され、1896年「沙市日本国領事館」が設置された。それぞれ専管租界地の準備に入り、沙市は明治31年(1898年)8月18日、17条の条約が調印された(中日沙市租借専約)。場所は、沿江大道南側で荊江大堤沿いにある文星楼(写真1)を起点とし東南に1900m、端は玉和坪(洋??)までの長方形の地域、約180875坪と記録されている。

しかし、調印前の5月8日、税関に放尿した暴漢を門番が殴打負傷させ、翌9日に治療費を求めに来た群衆が、税関・招商局・日本領事館などに放火する事態「沙市事件」となった。この事件後に条約調印となっても、租界地運営の熱は冷め、幻の租界地となった。当時、邦人は20名ほど駐留していた。(写真2)は放火前の日本国領事館であるが、2階建て洋風建築であった。現在、文華中学がある辺りが租界地の中心になったと思われる(地図1)

文星楼は康煕年間に建設され、清代中期に現在地に移転、底辺が10m四方で15m高さの楼閣である。同治3年(1864年)に焼失し1941年に再建されたが、今は廃墟に近い建築物である。又の名を「奎文閣」ともいい、奎(とかき)とは古代中国天文28宿の一つ。奎(とかき)星は文運を司る神様である。科挙の試験を受ける青年がこの楼閣に通い、合格して進士となったという。

日中戦争では1940年6月に沙市は日本軍に占領され、終戦まで続いた。中華人民共和国成立後、荊州周辺は何度も行政区分の変更、1994年には沙市市・江陵県・荊州地区が併合し、「荊沙市」が発足した。1996年に「荊州市」と名称変更され現在に至っている。このように、現在の荊州市は6000年前から現在まで変わらない古都であり、周王朝以降は北(紀南城・郢城)→中央(荊州城)→南(沙市)と時代を追うごとに南下したと言える。古代から近代までを一望に見ることができる都市である。

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