<コラム>斉の姫君、蘇州「斉門」から遠く故郷の「長城」に涙する

<コラム>斉の姫君、蘇州「斉門」から遠く故郷の「長城」に涙する

斉は春秋時代に長城を築いていた。北と東は海に面し、北西は黄河と済水とが天然の障壁となっていたのが、西は春秋時代には魯・晋・衞の脅威にさらされ、戦国時代は南の楚国の圧迫があった。

紀元前1050年頃、周王朝「武王」は、兄弟を魯・燕・曹・衛・管・蔡などの国々に配置、山東省「斉」には妻の実家である太公望「呂尚」、本姓姜氏を配置した。この斉国が春秋時代の最初の覇王となるのは、太公望「呂尚」の16代目の君主「恒公」とその宰相「管仲」の力による。紀元前656年、恒公は諸侯の連合軍と楚を巨従させ、紀元前651年には、魯・宋・曹・衛・鄭と葵丘で会盟し、覇王となった。

斉は春秋時代に長城を築いていた。北と東は海に面し、北西は黄河と済水とが天然の障壁となっていたのが、西は春秋時代には魯・晋・衞の脅威にさらされ、戦国時代は南の楚国の圧迫があった。そこで斉は、西は黄河のほとり長清県孝里鎮から泰山の北を通り、曲阜北部莱蕪、諸城、膠南、青島市西部「黄島」に至る620km余に及ぶ長城(まさに千里の長城)を築いた。斉の長城は秦始皇帝の築いた万里の長城より500年も古い中国最古の長城であった。青島珠山国家森林公園内に長城跡を見る事ができる(写真1)。

呉は常に楚と戦っていた。楚は中原の晋と戦い、晋は東方にある斉と戦っていた。晋が斉を攻めれば楚が救援する。呉は晋と手を結び強国になった。斉と楚は仲の良い関係を構築していたため呉王“闔閭”が宰相“伍子胥”、軍師“孫武”と考えた策は、斉の姫君を太子“波”に嫁がせる事であった。楚と斉の関係に楔を打ち込むためだ。時の斉「景公」は姫を呉に入輿させ、太子“波”の妻とした。

この姫君は非常に美貌であったという。春秋時代、斉都「臨?(りんし)」は周都「洛陽」を凌ぐ大都市であった。しかし、呉都「姑蘇」の地は田舎臭く、姫は日夜悲泣したという。闔閭は姫のために北門(斉門)に九層の高楼を建て、「国が恋しくなれば、高楼から故郷を望見すれば良い」と慰めたが、ついに病気になり亡くなった。この北門の事を「望斉門」ともいう(写真2右)。太子“波”はこの姫をたいそう愛していたため、その死を悼むこと一方ではなかった。やがて太子“波”も病気になり、一年後に後を追うように夭折した。そのため、太子は次男“夫差”となった。

斉の姫君は人質に近い状態で“波”の妻として700kmも真南の国に嫁いだ。斉都「臨?(現在の?博市)」から斉の長城を越えて来たわけだ。いったん長城を越えることは二度と斉には戻ることはない。非常につらい数カ月の道中であったろうと想像される。姫が最後に見たであろう長城はどこであったのか、臨?の南「青石関」と推測される(写真2左)。

斉の姫が登った斉門は現在なく、蘇州駅に向かう大道と大橋があるだけである。ただ、山東には山並みをつなぐ石を置いた長城跡が残っている。青島(黄島経済技術開発区)にある斉長城烽火台跡は東端の終点である。斉長城路の端に烽火台が再建された(写真3)。ここから西の方角を見ると、夕日に映える山岳がはるか遠く美しく続いている。斉の公女が長旅に疲れ、蘇州に辿り着いて2500年以上になった。今、斉門から見える風景は高層ビルやアパートであるが、50年前までは広い田畑が見えるだけであった。そのはるか遠くに斉国があった。今では蘇州から高速鉄道を使い5時間半ほどで斉都「臨?」に着く。

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