韓国が映像を公開した「臨月の慰安婦」はどのように救出され、故郷に戻ったのか

韓国が映像を公開した「臨月の慰安婦」はどのように救出され、故郷に戻ったのか

韓国でこのほど、第2次世界大戦終盤に日本軍慰安婦が「救出」される瞬間の映像を公開された。

韓国ではこのほど、公共放送のKBSが第2次世界大戦終盤に日本軍慰安婦が「救出」される瞬間の映像を公開して注目を集めた。映像は1944年9月7日に中国雲南省松山(拉孟)で米兵士により撮影されたものとみられており、「臨月の慰安婦」として知られる故パク・ヨンシムさんの姿が映っている。大きなおなかに乱れた髪のパクさんは、両手を突き上げ「マンセ(万歳)」と叫んでいる。

■パクさんはどのように「救出」され、故郷に戻ったのか
1944年9月7日、日本軍は雲南省松山で起きた米中連合軍との約100日にわたる戦いで全滅した。韓国の東北アジア歴史財団の資料によると、現場からは死亡した多くの日本軍兵士に混じって日本軍慰安婦の遺体が発見されたという。

一方、生き残った慰安婦の中には当時22歳のパクさんがいた。パクさんは日本軍の陣地に残っていたが、敗戦を予感した日本軍兵士らが自決する直前に他の慰安婦3人と逃げ出した。当時の状況について、パクさんは2000年5月に「日本軍が軍旗を燃やしたという話を聞いて『日本が負けた』と思った。怖かった。日本人女性に『一緒に逃げよう』と言われ、すぐに塹壕の外に飛び出した」と話したという。

パクさんらは山から川に向かって逃げ、トウモロコシ畑にいるところを連合軍に発見された。今回公開されたのはその時の映像だ。発見された慰安婦のうち1人は連合軍兵士を恐れて川に飛び込み、死亡したとされている。臨月だったパクさんは急に出血が始まり、中国人医師の元へ運ばれたが死産したという。

その後、パクさんは昆明の捕虜収容所に移送された。そこには朝鮮人慰安婦が23人、日本人慰安婦が4人、日本軍兵士が77人いたとされている。その中にはパクさんのいた慰安所を訪問していた日本軍兵士の姿もあったという。1995年に北朝鮮で発見された証言集で、パクさんは混明の収容所での生活について「日本兵と私たち被害者をなぜ同じ監獄に入れたのだろうか」といら立ちをあらわにしているという。

昆明の収容所で約7カ月を過ごした後は重慶の大韓民国臨時政府に移された。そして1946年1月下旬に重慶を出発し、3〜4月に韓国の仁川港から帰国したとされている。

■パクさんはなぜ慰安婦となり、中国にいたのか
KBSの報道によると、パクさんは1921年に平安南道で生まれ、17歳だった1939年8月に「お金が稼げる」との言葉にだまされて南京市にある日本軍の慰安所に送られたとされている。1942年にはミャンマーの慰安所に移され、それからしばらくして松山の慰安所に移されたという。

当時、日本軍は中国西部を侵略するため海抜2200メートルの松山に陣地を構築していた。この最前線地帯に慰安所があったとされ、その跡は現在も残っている。この慰安所にいた24人の慰安婦のうち、大部分が朝鮮人女性だったとされている。

■パクさんの帰国後の活動
パクさんは故郷の平安南道に戻り、1990年代初めに「慰安婦被害者」であることを初めて公にした。2000年5月には、1944年9月に連合軍が松山で撮影した写真の中の「臨月の慰安婦」がパクさんであることが確認された。その後も自身の経験した怒りや苦しみを世界に伝えるべく精力的に活動を続け、2006年に死去した。最後には「私の人生は一体何だったのか」との言葉を残したという。(編集/堂本)

関連記事(外部サイト)