中国第一の名将、韓信(3)

「楚漢(そかん)の戦い」の中で、劉邦(りゅうほう)は人材を集めるために項羽(こうう)と決戦することにし、功労のあった人に賞を授けることにした。例えば、張耳(ちょうび)を趙王(ちょうおう)にし、黥布(げいふ)を淮南王(わいなんおう)にし、臧荼(ぞうと)を燕王(えおう)にし、信を韓王にするなど。韓信(かんしん)も斉国(さいこく)を攻め落としてから、斉王を授かった。しかし、項羽が攻め落とされてから、心の狭い劉邦は口実を使って韓信の軍事権力を奪おうとし、韓信を斉王から楚王に変えた。さらに、西漢が創建されてから、韓信が反乱を企んだと無実の罪を着せた。劉邦は南方・游雲夢(ゆううんむ)を抑えつける口実で陳平(ちんぺい)と結託し、諸侯との面会を求め、韓信を拘束しようと企んだ。韓信は知らずに劉邦に謁見した。韓信はその場で拘束され、後に淮陰俣(わいいんま)に降格させられた。

鋸鹿守(いろくしゅ)・陳?(ちんき)が反乱した時期に、韓信のもとにいる居俣(いま)は韓信の気に触ったことから拘束された。そこで、その弟は復讐しようとして、韓信が反乱し呂后(りょこう)を襲撃すると誣告(ぶこく)した。それを聞いた呂后は蕭何(しょうか)と共謀し策略を操り、反乱した陳?が鎮められたと偽情報を流し、諸侯と群臣に祝賀の儀式に参加するよう通達した。韓信は無防備に祝賀の儀式に着いたときに、呂后に派遣された武士に拘束された。韓信は長楽宮(ちょうらくきゅう)で殺害された上、一族も皆処刑された。

司馬遷(しばせん)も「史記」の中で、韓信のもとにいた居俣の弟の韓信に対する誣告は、まったく事実無根として冤罪であると示した。秦檜(しんかい)が「でっち上げ」の罪名で岳飛(がくひ)を陥れたのも歴史上の大きな冤罪事件だというのは周知の通りで、劉邦、呂后などが韓信を殺害したことも同様に永遠の悲劇で冤罪事件として残った。

韓信がもし反乱しようというのであれば、「楚漢の戦い」がもっとも良い機会だった。当時、韓信は軍事力を握り、兵力が強大であり、混乱した時勢だったため、一方の雄を唱えることができた。これに対して、劉邦が紛争を鎮め、天下を統一したのち、軍事権力及び軍隊を奪われた韓信が反乱を企むのは、まさに自ら進んで網にかかる自殺行為ではないか?韓信の智恵や頭脳からしてこの状況を考えつかないのはありえないことだ。反対に、韓信は2度も三分天下の勧めおよび劉邦に背くことを断った。

劉邦、項羽が天下を争う重要なときに、項羽は武渉(ぶしょう)を韓信のところに派遣し、「劉項のことはすべてあなたが握っている。あなたが右に寄れば、漢王が勝利し、左に寄れば項王が勝利する」ことから、「楚漢の戦い」において、韓信は全局面を左右する重要な人物だと説明がつく。武渉は韓信に対して、項羽と連携し、劉邦と三分天下を勧めた。しかし、韓信は、「私は当年項王に追随したとき、矛を持ち宮殿の入り口を守衛するものだった。私の提案は採用されず、そのために、楚を背き漢に帰属した。漢王は私に将軍を授けてくださり、数万の大軍を与え、良い衣服や美食も分け与えてくださり、意見を聞き入れてくださったから、今日の私がいるのだ。私のことを非常に信用してくださっている漢王を決して裏切ることはできず、私が死んでも心は変わらない。項王のご契状に感謝すると伝えてください」と答えた。

武渉が去った後に、齊人(さいじん)の?通(かいとう)は天下が韓信に握られていると知り、奇策で韓信を感動させようとし、面相の説にて韓信を動かそうとした。?通は、「真正面から見たあなたの面相は、危険かつ不安定な立場に立たされている。しかし、裏の面相では、貴重で尊いお方だ(実際、韓信に対して劉邦を裏切るように唆している)。韓信はそのわけを聞いた。?通は、劉項の運命は韓信が握っているとし、韓信が漢に身を寄せれば漢が勝利を獲得し、楚に身を寄せれば楚が勝利を獲得する、と天下の情勢を分析し、韓信に対して三分天下を勧めた。

韓信は「漢王は私を優遇し、私を車で送り、衣服や美食を与えてくれているから、憂患を分かち合い、忠誠を尽くすべきだ。利益のために裏切ることはできない」と答えた。?通はさらに、人の心は難しいとし、韓信は漢王に対して忠誠を誓っても、智勇兼備、功労が天下を覆うほど大きい人臣としては、とても危険だと指摘した。数日後、?通は再び韓信に対して、時機を逃さずに決断をするようにと促した。漢を背信できない韓信は、漢に対して功労を残したことから、漢は義理も人情もないことはしないと考えた。韓信の言行から、彼が反乱を企むとは実に信じがたいことだ。

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