歴史の名君 唐の太宗・李世民

歴史の名君 唐の太宗・李世民

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唐王朝を設立したのは、高祖の李渊(りえん)であるが、実質的な創業の功臣で、国の発展の枠組みを固めたのは唐の太宗・李世民(626〜649在位)だ。李世民は、中国五千年の歴史の中で最も賢明な名君と称えられており、彼が統治していた貞観時代は歴代の帝王たちの模範となった。

李世民という名前の由来には、次のような逸話がある。世民が4歳の時のことである。李淵を訪れた書生が偶然に世民を見かけて、「龍鳳のような気品に、太陽のような貴人相だ。冠礼を上げる年頃(20歳)になると、世を治めて民に安らぎをもたらすであろう」(龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民)と言ったという。この(済世安民)から二文字を取って世民としたのである。

李世民は幼い頃から戦場を飛び回り、民衆の苦難を目の当たりにしたため、民こそが国を建てる根本であることをよく知っていた。彼はかつて太子と大臣らに次のように語ったという。

「帝王を船に例えるならば、民は水のようだ。水は船を載せるが、また船を覆すこともできる」

「何事をするにも、まず根本を良くしなければならない。国の根本は民であり、民の根本は、まさに糧である。だから、先ず民の衣食問題を解決しなければならない」

太宗はこのような民本思想をもとに国を治めた。また、民のための政治を実現するため、自分の下で働く人材を幅広く登用し、多くの臣下たちの直諫(ちょっかん、相手の権力・地位などに遠慮せずに、率直に相手をいさめること)を謙虚に受け入れた。

太宗が立派な人材を登用するために、どれだけ心を遣ったのかを知ることができる逸話がある。太宗は自分を殺害しようとした太子・李建成と弟の斉王・李元吉を排除し、実質的な権力を掌握するきっかけとなった玄武門の変(げんぶもんのへん)の時に、大きな功を立てた常何という将軍がいた。彼は戦いにおいては勇敢であったが、武将出身で学識が浅かった。貞観3年、太宗は、すべての臣下たちにそれぞれ自分の政治的見解を文章にして提出するよう命じた。その中で、常何が提出した文章は非常に立派なものだったが、常何のことをよく分かっている太宗が、その中身を知らないわけがなかった。

この文章を書いた真の人物を追及する太宗に、常何は恐れて「陛下、恐縮ですが、その文章は臣が書いたものではありません。臣の食客である馬周という者が代わりに書いたものです。私は罪を犯してしまいました」と答えた。

太宗はすぐに馬周を呼び入れ、才能を確心した太宗は直ちに彼を重用し、自分を騙した常何に罰を与える代わりに、良き人材を推薦したことを称え、絹300疋(びき)を下賜(かし)したのだった。

太宗は出身や家門を問わず、広く人材を登用し、人物の過去に囚われることなく、その人の長所だけを見た。実際に太宗の時代に重用された臣下たちの面々を見れば、隋の朝廷で仕えていた人は勿論、唐王朝への反逆を起こした人物の部下もいれば、太宗と犬猿の仲だった皇太子・建成の下で仕えていた策士たちもいた。その代表的なのが魏徴(ぎちょう、580年〜643)である。魏徴は元太子・建成の策士であり、かつて李世民を殺さなければならないと提案した人物であった。太子一党を排除した後、李世民が魏徴に罪を問い、なぜ朕(ちん、天子の自称)の兄弟の間を離間させたのかと問い詰めたところ、魏徴は少しも屈することなく、「あの時太子が私の進言通りにしていれば、こんな災いは起こらなかったはずです」と堂々と答えたのだった。李世民は、彼の所信と勇気を高く評価し、周囲の反対を押し切って、魏徴に高い官職を下賜した。

その後、魏徴は太宗の期待を裏切ることなく、命を惜しまない果敢な直言(ちょくげん)で国政の過ちを正していった。後に魏徴が亡くなった時、太宗は直接彼の家を訪ねて、悲しみに打ちひしがれ泣きながら話した。

「人は銅を鏡とすれば、衣冠を正すことができる。古(いにしえ)を鏡とすれば、興亡の理が見える。人を鏡とすれば、過失を知ることが出来る。私は、かつてこの三種類の鏡を揃え持ち、過ちを犯すことがないようにしてきたが、今、魏徴が病でこの世を去ったことで、鏡を一つ失ってしまった」

広く人材を登用し、他人からの批判を謙虚に受け入れる太宗のおかげで、唐王朝は中国の歴史上最も豊かな強国となり、開放的で包容的な文化を残したのである。太宗が統治していたこの時代を、後世の人々は「貞観の治」と呼んだ。

(文・蓮成)※看中国より転載

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