「慰安婦」「徴用工」を伝説の外交官はどう考えていたか

 廬武鉉(ノムヒョン)大統領の登場以降、日韓関係は冷却化の一途をたどってきた。国と国が激しく対立するケースは、歴史上めずらしいことではなく、中にはほとんど修復の可能性がないとみられる関係もある。しかし、外交官、岡本行夫氏は「日韓関係の修復は不可能ではない」と見ている。韓国で5年ぶりの保守政権が発足して1カ月。ゴールポストが次々に動かされ続けてきた日韓関係の正常化は果たして可能なのか。岡本氏の見解を『危機の外交 岡本行夫自伝』から紹介する。

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■慰安婦と徴用工


 日韓の最大のトゲは「慰安婦問題」である。韓国の世界的なキャンペーンにより、日本軍が征服した土地の女性たちを強制連行して性 奴隷にしたというイメージが国際的に定着してしまった。

 韓国は、 グローバルな反日キャンペーンをまずアメリカで始めた。人権意識と女性の権利に敏感なアメリカで最も効果的なイシューは慰安婦問題だ。韓国は、慰安婦の象徴として少女像を全米の各地で建てる運動を始めた。これほど若年の少女が慰安婦として存在したことは想像しがたいが、政治キャンペーンにあっては、事実は関係ない。

 カリフォルニア州グレンデール市公用地に建てられた像の前では連邦下院の外交委員長が跪き、花束をささげ韓国で大きく歓迎された。もちろんその議員の選挙区に多い韓国系アメリカ人の間でも。

 米国で韓国の反日キャンペーンを展開することは韓国にどのような利益をもたらすのか。日本の外交官たちはこう考える。

「韓国はアメリカでの政治的影響力を増したい。ただ、韓国人は韓国での自分の出身地域への帰属意識が強く、在米韓国人には『韓国』という国家への強い忠誠心がない。これではアメリカで大きな政治勢力とはならない。そこで韓国政府は反日運動でアメリカにいる韓国系市民を結束させることを考えた。慰安婦像の建設運動は絶好のプロジェクトだ」

 ロサンゼルス総領事であった友人は、こう解説する。

「発端は、1992年ロサンゼルスで韓国人が経営するストアに盗みに入ったとして黒人少女を店主が射殺したことだ。それからロサンゼルスでは5日間にわたって韓国人コミュニティーと黒人コミュニティーの間で銃撃戦まで起こった。このとき韓国側には、ロス市警が自分たちを十分守ってくれなかったという思いが強く残った。韓国政府は、それは自分たちがアメリカ国内で十分な政治力を持っていないためだとの結論に達し、それから国家として組織的に韓国系アメリカ人を増やす政策を取り始めたのだ」

 韓国政府は、韓国籍とアメリカ籍の二重国籍の保持を認め、積極的にアメリカへの帰化を奨励した。その結果1990年には日系アメリカ人85万人に対して80万人しかいなかった韓国系アメリカ人の人口は、2010年には142万人にまで達することになった。日系アメリカ人の数は、この間に76万人に減少している。

 一方、日本政府は、この問題は抗弁すれば韓国内の猛反発を招き、アメリカの識者からは修正主義者のレッテルを貼られるので、「歴史的事実についての論争は避け、頭を下げて謝罪し続けること」を政治的知恵としてきた。そうしていれば、いつかは日本への批判の嵐も収まるだろうと。

 僕もこの問題については、慰安婦に補償金を支払う目的で1995年に設立されたアジア女性基金に理事として参加した以外は、積極的な発言はしないようにしてきた。

 しかし、事実関係について説明をしないという態度のために、世界中でこの問題への偏見と日本への悪感情が醸成されてきたことは否定できない。

 ついには、韓国のキャンペーンによって、アメリカのマグロウヒルの高校教科書の副読本に次の記述が出るまでになった。

「……日本軍は、14〜20歳の20万人程度の女性を強制的に募集、徴集し、『慰安所』と呼ばれる売春宿で働かせた。日本軍は、それら女性を天皇から部隊への贈り物とした。女性の出身は、韓国、台湾、満州など日本の植民地、そしてフィリピンや東南アジア各所の占領地域にわたり、その大半は、韓国と中国出身者だった。

 この帝国売春サービスに一度従事させられると、『慰安婦』たちは毎日20〜30人の日本兵の相手をした。……脱走しようとしたり、性病を罹患した場合、日本兵はそれら女性を殺害した。戦争末期には、日本兵はこれら活動を隠すため、慰安婦を大量に虐殺した。……戦争から生き残った慰安婦たちは、深い恥辱を経験し、自分たちの過去を自ら隠すか、家族によって隠されることとなった」

 この副読本を読んで日本という国に対して嫌悪感を持たないアメリカの高校生はいないだろう。極端な解釈をとるNGOの主張が浸透してしまった韓国の意識を変えるのはもう遅いとしても、アメリカの若者たちまでがこうした間違ったストーリーによって日本という国を嫌いになっていくことは耐えがたい。だから、韓国諸団体の感情的な非難、そして韓国の主張に同調するアメリカ人から修正論者と呼ばれることを覚悟の上で、僕の意見を記すことにする。

 慰安婦問題について日本軍の非をキャンペーンし日本政府を批判する先頭に立ってきたのは「日本のオピニオンペーパー」の朝日新聞であったが、朝日は過去の記事の多くが間違いだったことを2014年に認め、最終的に18本の記事を撤回した。なぜ間違った報道になったのかを解明するために、2014年10月に自ら「第三者委員会」を設立し、僕も7人の委員のうちの一人として、半年にわたって慰安婦問題の検証に携わった。結果は110ページにわたる報告書として公表された。

 自らの過(あやま)ちをただそうとする勇気は立派であったが、従来の記事がもたらしたダメージは大きい。それらの記事は「日本発の史実」として韓国に伝わり、その度に韓国での日本批判を加速化させてきた。

 例えば、慰安婦の総数だ。1992年1月に朝日新聞はこれを解説記事の中で「20万人」と解説した。この数字は、執筆した記者が戦時中に日本の工場に徴用された朝鮮人女性の数と慰安婦の数を混同して伝えたものだが、この数字が韓国に伝わり、大きな衝撃が走った。それ以来「日本側も認めた公式の数字」となって世界に伝わってしまった。

 慰安婦は実際には何人いたのか。多くの資料と自身の調査によって過去の史実を復元している歴史家の秦郁彦教授は、さまざまな根拠から慰安婦の数を2万人と推定する。僕の友人の歴史学者たちも、秦教授同様、総数は2万人、全体の半数近くが日本人、ほぼ同数が朝鮮人女性、残りが沖縄、台湾などの女性であったと推論する。

 朝日新聞のキャンペーンでは、吉田清治(せいじ)という人物の証言が重要な役割を占めていた。吉田は、自分が軍の命令により朝鮮の済州島で「慰安婦狩り」を行って、200人の韓国人女性を連行し慰安所へ送りこんだと1982年に発表し、以来多くの執筆や講演を行い、韓国で土下座をして謝罪するなどの行動で韓国内で称賛された。彼の「告白」は有名な国連のクマラスワミ報告のベースとなり、2007年6月にアメリカ下院で行われた日本への「謝罪要求決議」の根拠のひとつともなった。

 ところが、全てが作り話であった。彼は軍人であったこともなく、済州島へ行ったこともなかったのである。カネや世間の注目を集めるために虚偽の話をする人間を「詐話師」と呼ぶが、吉田もその一人であった。朝日新聞は2014年、吉田の話は全て虚偽であったと発表した。

 朝日新聞の個々の記事が間違っていようと、慰安婦制度は悲惨で野蛮な制度である。その根本には1946年1月まで合法化されていた日本の公娼制度がある。

 内務省が「良家の子女の純潔を守るため」という名目で「特殊慰安施設」を設立したのは、終戦のわずか3日後(!)のことであった。このエピソードを『昭和史』で紹介した半藤一利さんは、「勝利者に対する迎合、まことに卑屈な阿諛(あゆ)」と呼ぶ。進駐軍の第1陣が日本に来たのは8月27日。その日には1360人の慰安婦が米軍兵士のために、東京・大森に用意されていたという。いかに売春が合法化されていたとはいえ、世界にこんな国はないだろう。皇国史観という個人崇拝は、宗教への帰依と異なり、倫理観の世界への広がりを民族に植えつけない。

 それにしても、国民を勝算のない戦争に引きずり込み、明日の生活の目処(めど)もつかないところへ追い込み、悲嘆のどん底に沈めた終戦と同時にエリート官僚組織が考えたのがこれであった。

 僕の母の和子は今年105歳(2020年3月現在)になるが、戦時中、大阪市の天下茶屋に住んでいた。付近には日本で最大級の規模の赤線街であった飛田遊廓が広がっていた。約200軒の娼家が軒を連ねた飛田から、定期的に多くの女性たちが中国にいる日本軍のために慰安婦として出かけていった。

 その飛田の女性たちが慰安婦として中国にいくため大阪港に向かう時は、出征兵士たちを送り出す時と同じように、近隣の人々が日の丸の小旗を振ってこの女性たちの行列を見送ったという。和子の父は町内会長として、この“国家に奉仕する”女性たちを歓送する人々を町内の家庭から募るのが役目で、自分の娘である和子は必ず旗振りに参加させられたと述懐する。公娼制度のもとで女性たちは「軍人さんのために働く女性」であった。和子も敬意をもって、「ごくろうはーん、気いつけていってくるんやでー」と叫んで見送った。

 和子は既に成人していたが、中国に行く女性たちにも、それを旗を振って見送る自分にも、何の違和感も抱かなかったと言う。満州に出征していた夫のことは気にならなかったか? 「家庭のある脩三さんたちには、そんなこと、ようでけしまへん」。

 日本に関する限りは、正常な価値観を麻痺させ、戦場に赴く兵士と、それに肉体的な快楽を与える女性たちを一体化して称賛する意識を作りだしたのは、野蛮な公娼制度であった。

 しかし、いかなる事実も慰安婦制度自体を正当化できるものではない。

 慰安婦制度は戦場の兵士の性欲を満たすためという野蛮で忌むべき制度である。僕も朝日新聞報道に関する報告書発表の記者会見で、明確にそう述べた。ひとたび慰安所に入った女性たちの境遇は、非人間的なものであった。民間業者によるオペレーションであり、軍は関与しなかったという言い訳も通らない。軍は占領地に慰安所の建設を許可し、かつ慰安婦たちの性病管理を日本軍の軍医が行ったのである。

 日本としてこの野蛮な制度を存在させたことを謝罪すべきは当然である。日本は、今も一部の国に存続する「公娼制度」を世界中で廃止する先頭に立つべきである。

 以上は、日本人慰安婦についての僕の理解である。朝鮮半島の情景は違っていただろう。深く関与したのは軍ではなく朝鮮人業者であったことが多くの資料から明らかになっている。「月収300円以上で慰安婦大募集」という業者の募集広告が載ったいくつかの朝鮮の新聞も秦教授の手許に残っている。日本兵の月給が10円前後の時代であった。

 もちろん、これがストーリーの全てではないだろう。仲介業者の偽計で慰安所に連れていかれた女性たち、親によって業者に売り渡された女性たちも多かっただろう。ただ、どのような資料を見ても、アメリカの高校生たちに与えられている副読本の描写は事実とは思えない。秦教授は、「抵抗したが強制的に連行された」という女性たちの証言を調査し、家族、隣人、友人などの第三者の目撃証言が存在しないことを指摘する。

 韓国においても同様の研究は公表されているが、それらの執筆者たちは韓国内で厳しく批判されて社会生命も奪われている。

「慰安婦問題」について、日本はこれまで何度も謝罪と補償を行ってきた。橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の四人の首相は、元慰安婦の一人一人に謝罪の書簡を送った。だが、韓国政府には、問題解決の強い意思がない。常に国内の最も過激な主張に押され、時には国民にアピールする反日政策のカードにも使われてきた。

 僕も参加したアジア女性基金が95年に設立された時、韓国政府はこれを歓迎し、これをもって本件の幕引きを図ると表明していたが、世論に押されて基金を批判する側にまわってしまった。朴槿恵大統領の時には、両国政府の間で、「慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認」と合意に達したが、その後の文在寅大統領は、その合意も破棄したのである。

 韓国との間には韓国が「強制労働者」と主張し、文在寅大統領のもとで急速に悪化した「徴用工」の問題もある。「中国人強制労働者」は、日本軍が事実上拉致する形で戦時中に日本に連行されてきて強制労働に従事させられた人々だ。韓国人徴用工は全く別の種類の人々で、「強制労働」に付されたわけではない。しかも65年に結ばれた日韓請求権協定によって法的にも解決されている。

 そもそも徴用工問題とは何か。朝鮮人が日韓併合条約によって一方的に「日本人」とされたことは既に述べた。実態は同じ日本人といっても差別されていたが、形式的には日本人と同じ法的権利義務の下にあった。1938年に日本では国家総動員法が施行され、朝鮮人も含め全ての国民が戦争遂行のために国家への奉仕を強制されることになった。多くの朝鮮人が戦場に行くか工場に行くかの選択の中で工場に行った。

 朝鮮人労働者も日本人労働者も、同じ職場と環境のもとで働かされたのだが、炭鉱のように、職場自体が極めて劣悪な条件のところもあった。そこへ組み入れられた朝鮮人の怒りは大きい。彼らにも賃金は支払われたが、日本の敗戦とともに紙幣はただの紙切れとなった。日本人は自国の敗戦の結果としてこれを受け止めざるを得なかったが、朝鮮人労働者が補償を求める気持は当然だろう。

 日本と韓国は1965年に国交正常化を果たし、当時としては経済協力分も含め、韓国の国家予算3.5億ドルの1.5倍にあたる額を賠償として支払った。韓国の請求権を処理する協定も結ばれ、徴用工の問題もこれをもって解決されたとする合意議事録もできた。

 しかし、人権派の文在寅大統領は納得しない。

 前途は容易ではない。


■悪化する日韓関係


 先に記したように、日本と韓国との関係は、金大中大統領の時代には改善への希望がもたらされたが、盧武鉉、李明博、朴槿恵の三人の大統領になって悪化した。

 盧武鉉は米国に対して韓国は日本を「仮想敵国」と認識していることを明らかにして米側を驚かせ、李明博は政権発足当初こそ日韓関係の改善への動きを示したが、国内の支持率の低下とともに「日本カード」を使い、「天皇が韓国に謝罪に来るなら膝を屈して犠牲者の間を巡れ」などと発言して反日感情をあおり、朴槿恵は就任当初から反日を政権基盤の強化の土台として使った。

 国民にどのようなメッセージを送るかは、指導者の考えひとつである。朴槿恵大統領の戦略は、中国と共同して日本批判を行うことであった。日本の首相の靖国参拝は日中間だけの問題であり、韓国がこれまで抗議したことはなかったが中国と共に日本批判を始めた。一方、中国は日韓間だけのイシューであった慰安婦問題について、韓国の要請に応じて日本を非難するようになり、中国国内にある日本軍慰安所の建物跡を世界遺産に指定する運動を始めた。

 日本の初代首相伊藤博文を1909年にハルビン駅で射殺した朝鮮人民族主義者の安重根は日本人にとっては暗殺者だが、韓国では民族の英雄である。

 朴槿恵大統領は2013年6月に北京で習近平主席に対し、韓中の共同事業として暗殺現場のハルビン駅に安重根記念碑を建立することを提案した。日本側の驚きをよそに習近平はこれに応じ、2014年1月には安重根記念館が派手なセレモニーとともにオープンした。

 ちょうどその時に北京を訪れていた日本の経済使節団の団長は、親日家のトウ・カセン元国務委員から「あれは黒龍江省政府が勝手にやったことで、中央政府は関知しない」と説明され納得したが、その翌日習近平主席はこれを否定し、あれは自分の直々の指示によるものだと述べた。

 こうした空気の中で若者たちにとって安重根は反日運動のシンボルとしていっそうの役割を持ち、2013年7月にソウルで開かれたサッカーの東アジア杯の試合で、スタジアム観客席最上部からグラウンドまで届く安重根の似顔絵が観客を熱狂させた。ひとたびあおられた民衆を沈静化させることは容易ではない。

 歴代の韓国大統領は、国民をまとめるためにも、韓国にとっての友好国と非友好国を分けてきた。李明博は米国との関係を重視して中国との関係を悪化させた。朴槿恵は米中韓の連帯を重視して、米国とも中国とも関係を前進させたが、日本を切り捨てた。文在寅は北朝鮮との関係を重視して米国と日本との関係を悪化させている。

 左翼の人権派弁護士だった文在寅大統領の思想的バックボーンは、彼の個人的闘争を経るにしたがって一層強くなり、歴代の大統領の中でも最も反日色の強い姿勢をとっている。慰安婦問題や徴用工問題での日本との合意をほごにする一方、日本が韓国への貿易管理を厳しくすると、猛烈な対抗姿勢を見せた。その日本に対し彼は「盗人猛々しい」と罵倒したが、何をもって日本を「盗人」と呼んだのか? 1910年の日韓併合のことである。110年前の行動によって、日本は半永久的に道徳的な劣位に置かれている。韓国は盧武鉉政権時代に「親日反民族行為法」を成立させた。70年前に日本の植民地支配に協力した韓国人を探し出して、その子孫の財産を没収するという驚くべき法律である。この法律の厳格な適用をもって、国家から親日の色を一切抜こうとしている。

 日本と合意してしまった条約はどうするのか。日本と韓国は1965年に国交正常化を果たし、戦時賠償を果たすために請求権協定を結んだが、これは文在寅たちのグループの納得するところではない。この国際条約をどう骨抜きにするか。文在寅は人口わずか28万人の春川(チュンチョン)市のローカル裁判所の判事を最高裁長官に抜擢し、「65年の日韓合意は個人としての韓国人犠牲者を拘束しない」という判決を出したのである。韓国には罪刑法定主義や法の不遡及は存在しない。民族の怨念が晴れない限り、日韓関係の前進はない。

 世界の中でキプロスとトルコなど宿敵関係にある二国はほかにもある。

 国家間で激しい対立があったケースはアテネとスパルタの対立の時代から今日まで数多い。現在も欧州ではトルコとギリシャ、セルビアとクロアチア、中東ではイランとイラク、アジアでもインドとパキスタン、タイとミャンマーなど、ほとんど修復の可能性がない。

 日本と韓国の対立はそうした事例に比べても修復は不可能ではない。第一に日本からの韓国への悪感情は韓国の反日に対する反作用として表れているものであり、非難は一方向のものだからである。第二に韓国は為政者が国民の間に反日感情を意識的に扇動する形であり、金大中のように大統領の意識さえ変われば国民感情も変わるからである。

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※『危機の外交 岡本行夫自伝』より一部を抜粋して構成。
岡本行夫(おかもとゆきお)(1945-2020)
1945年、神奈川県出身。一橋大学卒。68年、外務省入省。91年退官、同年岡本アソシエイツを設立。橋本内閣、小泉内閣と2度にわたり首相補佐官を務める。外務省と首相官邸で湾岸戦争、イラク復興、日米安全保障、経済案件などを担当。シリコンバレーでのベンチャーキャピタル運営にも携わる。2011年東日本大震災後に「東北漁業再開支援基金・希望の烽火」を設立、東北漁業の早期回復を支援。MIT国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、東北大学特任教授など教育者としても活躍。国際問題について政府関係機関、企業への助言のほか、国際情勢を分析し、執筆・講演、メディアなどで幅広く活躍。20年4月24日、新型コロナウイルス感染症のため死去。享年74。

デイリー新潮編集部

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