【コラム】タイ人に愛された日本兵:第4回(全7回)〜日本兵の生活と住民との交流

【コラム】タイ人に愛された日本兵:第4回(全7回)〜日本兵の生活と住民との交流

存命時のパーン・ターヌーさん(クンユアムの自宅にて)

 今年も終戦の日が近づいてきた。毎年この時期になるとタイ北部ミャンマーとの国境に接するメーホンソン県のクンユアム警察署長だったチャーチャイ・チョムタワット氏のことを思い出す。氏は在任当時から日本兵がクンユアムに残していった遺物を村人から買い集め、それらを展示するために博物館を創設。そして、村人から聞いた物語やエピソードを書き遺した。それらの文物を後世の若い人たちに伝えることが自分の責務だと言っておられた。タイに住むライターとして、本コラムをチューチャイ氏に献呈したい。

「第2次世界大戦でのクンユアムの人々と日本の兵隊さんの思い出」より

パーン・ターヌーさんの話

 メーホーンソーン県クンユアム郡クンユアム町に住んでいるパーン・ターヌーさんは、第二次世界大戦のことをよく覚えている。1942年のはじめから、終戦の1945年にかけて、クンユアム郡には多くの日本兵がいた。当時、パーンさんは13歳だった。クンユアム郡のほとんど全ての家には、日本兵が寄宿していた。パーンさんの家は市場と警察に近かったので、常時4~5人の日本兵が寄宿していた。この意味するところは、別の土地で職務を実行する人がいた場合、別の兵士が代わりにやってきていたことになる。空いている家がないようにするためのようだ。家に寄宿していた日本兵は、ほとんどが技術者で順番に交代で寄宿していた。戦争の4年間、兵士たちは家の階下に住み、家の主は階上に住んだ。朝、兵士たちは朝食を摂った後、それぞれ仕事に出かけ、昼には昼食のために家に戻り、昼食後は仕事に戻った。夕方は家主を手伝って夕食とあくる日の朝食の準備をした。

 兵士たちは米搗きや薪割りをし、水を汲んで沸かし、お風呂に入った。家の様々な仕事を率先して手伝った。夕方、ご飯と魚の夕食を食べた後、どこにも出かける用事のないときは、パーンさんの家族と話をして過ごした。また、交代で言葉を教えてくれた。それで、まだ娘だったパーンさんは日本の歌を、少なくとも5~6曲歌うことができた。それから60年が過ぎた現在、パーンさんは78歳(※調査当時)になっているが、まだたくさんの日本の歌を覚えている。そして「靴が鳴る」の歌をまだ歌うことが出来る。

「おてて つないで 野道をゆけば
 みんな かわいい 小鳥になって
 歌をうたえば 靴が鳴る
 晴れた お空に 靴が鳴る」

 日本の兵士たちは、クンユアムにいる間にクンユアムに関する歌をつくった。題名はなんというかわからない。しかし、パーンさんは歌うことが出来る。

「わたしは クンユアムの娘 どこにも 行けない
 クンユアムの娘 クンユアムの娘
 残る私は クンユアムの娘」
(中略)

戦時の前後を含む5年ほどの間は、彼らや自分たちの区別なく、人々は友達や親戚どうしのように助け合った。多くの人が亡くなったが、村人たちの心のなかには、まだ日本の兵士たちのことがはっきりと残っている。

 パーンさんは、当時自分の家に宿泊していた日本兵それぞれの特徴や性格、何が好きで何がきらいだったかを覚えている。名前も、全員ではないが覚えている。
たとえば、
 サカモト ハヤカワ ハタクラ ムラカマ イナジョウ
などである。兵士たちは、東京と大阪の出身であったという。(中略)

 パーンさんは、家の近くのムアイトー寺院内にあった日本兵の野戦病院でお菓子と果物を売ったことがあった。病院には病気や怪我の兵士がたくさんおり、それぞれが重症だった。パーンさんが持っていったお菓子は、米とゴマとサトウキビの汁をまぜたものだった。日本の兵士たちは「モチ」と呼んで、とても喜んだ。家に泊まっていた日本兵たちは、小麦粉を練って薄く延ばし、緑豆でつくった餡を包み、蒸したお菓子をつくっていた。もしあればココナッツを削ったものも包んでいた。果物は、ナムワーバナナやその他のバナナに人気があった。(中略)細かく刻んだタバコの葉もよく売れた。その他、卵やイモ類など、食料はなんでもよく売れたという。

 悲しいこともあった。傷ついた日本兵のなかには、財産が着ている服だけ、という者もいた。ビルマからクンユアム郡に逃げてきた兵士は、ほとんどがそのような状態だった。武器やその他のものは、売ったり、食料と交換してなくなってしまっていた。(中略)ほんの少し前まで力を持っていたのに、日本兵がこんな姿にまで落ちてしまうなんて、誰が想像できただろう。(中略)

 もうひとつ、忘れられないことは、日本兵がクンユアム郡に来て2年目の1943年のこと。11月のオークパンサーの日だった。技術者の日本兵で18歳か19歳くらいの、まだ位のない「オリ」という名前の兵士が、ある家の前にある木の下でピストル自殺をした。ここは現在のクンユアム郡の発電所の前にあたる。自分のピストルで頭を撃っていた。友人の兵士たちは「グム寺院」に死体を運び、タイ式に遺体に水をかける儀式を行った。遺体を白い布で包み、机の上に寝かせ、右手だけを出して、そこに友人の兵士や村人たちが水をかけた。パーンさんはこの兵士をよく知っていたので、この儀式に参加した。儀式のあとは、白い布に包まれたままの遺体を担架に乗せて、「グム寺院」の隣の「カムナイ寺院」の裏の池の近くに埋めた。埋めた場所には墓標を立て、日本語で名前を書いた(その後何十年もたって、日本から遺骨収集の担当者が来たときに儀式を行い、遺骨を日本に持ち帰った)。(中略)

第5回「悲劇に終わったメナムの残照の現実:前編」へつづく

本コラムは、故チューチャイ・チョムタワット氏の遺志を後世に伝えるべく書かせてもらっており、過去や現在の戦争行為を賛美したり美化しようとするものではないことを明記させていただく。
【編集:そむちゃい吉田】

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