「おまえ、本当に撃たれるぞ!」「この子のためにお金をください」――“世界で最も迫害されている”ロヒンギャの現実

「おまえ、本当に撃たれるぞ!」「この子のためにお金をください」――“世界で最も迫害されている”ロヒンギャの現実

バングラデシュ最大のロヒンギャ難民キャンプ・クトゥパロンのテント内で暮らす10代の女性。昨年10月、ミャンマー軍による弾圧を逃れ、舟でこの地にたどり着いた。逃げる時、「コスメとお気に入りの服だけを鞄に詰め込んで家を出た」のだと笑う。彼女のように、難民キャンプではきちんと化粧をしている女性が少なくない

1月中旬、国連が「世界で最も迫害されている民族」と認定したイスラム教徒の少数民族・ロヒンギャの難民キャンプを訪れた。

週プレNEWSでも報じた『現地ルポ―虐殺、人身売買…「ロヒンギャ」民族浄化の実態』の通り、昨年8月以降、ロヒンギャは故郷のミャンマー西部ラカイン州で武装集団が治安当局と衝突して以降、60万人以上が弾圧を逃れて隣国バングラデシュに遭難。彼らの多くは現在、人身売買業者の暗躍も伝えられる中、国境付近にあるコックスバザール県の通称“メガキャンプ”にテントを張り、不安な日々を過ごしている。

ミャンマー政府がバングラ側に逃れたロヒンギャの帰還を「1月23日に開始する」と発表した1月16日、難民キャンプでは、あるロヒンギャの男性がテント内への雨水の浸入を防ごうと側溝工事に没頭していた。故郷に帰るつもりはないのだろうか…?

「これまで多くの仲間が軍(ミャンマー軍)に殺害され、村を焼き払われた。住居と農地の復旧、生命の安全、国籍を認めロヒンギャとして普通に暮らせる権利。この3つが保証されてないのに帰れるはずがない。誰がみすみす殺されに戻るもんか」

この男性だけじゃなく、ロヒンギャ難民の多くが口々にそう話した。

「ミャンマー政府は帰還準備だって何ひとつやってないじゃないか。だから俺たちは長期化を覚悟して、雨期に備えて側溝工事をしているのさ」

その言葉通り、キャンプ地ではUN(国連機構)の資金を活用した井戸の補修、掘削工事があちこちで進んでいた。国連も難民生活が長期化すると見込んでいるのだ。

続いて、コックスバザール県の北東、ミャンマーと国境を接するトンブルライト村を訪れた。目の前を流れる小川の向こうはミャンマー。そこにも難民キャンプが張られていた。ここで生活するのはロヒンギャが多く住んでいたラカイン州北部の村、マウンドー周辺から100kmも険しい山岳地帯を歩き通して、ようやくたどり着いた人々だ。

国境となる小川に沿って、ビニールシートで作られた粗末な小屋がずらっと並ぶ。その数十メートル向こうには国境フェンスがある。小川と国境フェンスの間は緩衝地帯で、幅数十メートルの細長い土地に約6千人が避難生活を送る。

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ミャンマー側からこの川を渡れるのは、バングラ側から難民登録を受け、それを証明するIDカードを持つ人だけ。このキャンプ地から難民が逃げ込んでこないようバングラ国境警備隊が目を光らせ、IDカードを持ってない難民が現れた場合はキャンプに戻される。

川向こうのミャンマー側キャンプ地を取材しようと橋を渡ろうとすると、バングラ国境警備兵に「不用意に近づくな」と制止された。理由を聞くと、「ミャンマー側にはスナイパーが潜んでいて、こちらを監視している。撃たれても責任は取れない」とのことだった。

さらに、国境付近での一切のインタビューは国境警備兵によって禁じられた。滞在時間も10分程度に限られる。バングラ側から小川の向こうを眺めると、有刺鉄線が張られた頑丈そうなフェンスとミャンマー軍の国境監視所が見えた。車の運転をお願いしていたドライバーが「大丈夫だよ」と言ったので車を降りてカメラレンズを構えたら、バングラ国共警備兵が猛ダッシュで駆け寄ってきて怒号を浴びせられた。

「おまえ、死にたいのか! ミャンマー軍からおまえの動きは丸見えだ! 本当に撃たれるぞ! さっさとここから出ていけ!」

国境付近の緊張感は日に日に増し、安全とは言いがたい場所になっている。別の場所の国道では、1月16日に2ヵ所だった検問所が5日後には4ヵ所に増えていた。

小川の向こうは別の国。しかも、そこはロヒンギャからすれば、「帰りたいけど、命が危ないから帰れない」と怯える軍事独裁政権国家だ。この緊張感は日本人にはない感覚だろう。

そんな中、懸念されたのは取材規制が厳しくなっている点だ。記者の場合、バングラ側の難民キャンプで取材中に2度、バングラ警察から職質された。1回目は「危険だから注意しろ」、2回目は「今すぐ出て行け! 次は逮捕だ」と問答無用でバス停まで連行されて路線バスに放り込まれ、そのバスが出発するまで監視された。

コックスバザール県のクトゥパロンに、民有地を借り上げて60万人収容の大規模なキャンプを作る計画もある。その中で何が行なわれるのかを伝えるには大手メディアだけではなく、フリージャーナリストも自由に取材できなければならない。キャンプ地では人身売買組織の存在も危惧される中、今後、取材はますますやりづらくなるだろう。ロヒンギャの難民キャンプは外に向かって閉じられようとしている…。

実は現在、ミャンマーから日本に亡命した“在日ロヒンギャ”は約230人いる。そのうちの9割が群馬県館林市とその周辺に暮らしているが、館林市在住のアウン・ティンさん(49歳)がバングラデシュの難民キャンプに設立した学校が昨年11月に開校した。

今回の取材目的のひとつが、この学校だった。アウン・ティンさんは、いわゆる“88世代”。1988年、軍事独裁色を強めたビルマ政府(当時)に対して蜂起した学生のひとりだ。

しかし、軍事政権の弾圧が強まり、追われる身となって90年7月に国外脱出。タイなど複数の国を経由し、92年に来日した。現在は館林市で輸入業を営みながら、在日ビルマロヒンギャ協会の副代表(難民担当)を務める。

記者は国連機構やNGOが運営するロヒンギャ難民キャンプの学校をこれまで何度も取材してきた。その多くがミャンマー国内の子どもが受ける教育と同じ内容だったが、アウン・ティンさんが設立した学校は特別だった。

「ミャンマー語も英語も数学も教える。けれど、私たちのベースはミャンマー語ともベンガル語(バングラデシュの公用語)とも違う、ロヒンギャ語です。だから、この学校では子どもたちにロヒンギャの言葉と歴史を教えています」(アウン・ティンさん)

校舎はトタン屋根の粗末な造りだが、現在、6歳前後から12歳くらいまでの200人超が通っている。校舎の建設費や学校の運営費はアウン・ティンさんが身銭を切った。足りない分は、在日ロヒンギャら日本の仲間に訴えると「みんな苦しい暮らしの中から、お金を寄付してくれました」。

現在は生徒全員が教室に入りきらないため、午前と午後に分けて登校させており、難民キャンプには学校に行けない子どもも数多い。アウン・ティンさんは「またお金をなんとか工面して、近いうちにもうひとつ校舎を増やしたい。頑張らなきゃ」と笑みを浮かべた。

その思いの根底には、ロヒンギャとしての強い反省が込められている。

「私たちは教育を軽視してきました。私自身がもっと歴史を学び、少数民族の言葉を学び、人権を学んでいたら、今回の不当な扱いにももっと早く気づけたはず…。同じ過ちを繰り返しちゃいけない。だから、次代を担う子供たちには教育が必要なんです」

現在、難民キャンプで深刻になっているのは、人身売買ビジネスに携わる業者が子どもをさらってはマフィア組織に売り飛ばすという犯罪が横行し始めていることだ。少女が性被害に遭う事件も報告されている。

子どもたちが危険に晒(さら)される暮らしが続く中、アウン・ティンさんは学校の名前を『日本アウンティン平和学校』とした。

「子どもを毎日、学校に通わせると、毎日、先生に会います。ここにいれば安全。それは、犯罪から身を守る予防策にもなります」

報道カメラマンとして以前に、ひとりの人間として自分はロヒンギャ難民とどう向き合うべきか――そのことを深く考えさせられる出来事もあった。

バングラデシュ最大のロヒンギャ難民キャンプ、クトゥパロンにて、あるテントの前を通りかかると「この子を見てくれ」と母親が子どもを差し出してきた。通訳を介して話を聞くと、母親は昨年10月、ミャンマー・マウンドー近郊の農村から山岳地帯とジャングルを抜け、子どもを背負いながら5日間歩き通して逃げてきたのだという。しかも、子どもは知的障害を持ち、ポリオを発症していると…。

そこまで話した母親は、さらに口調を強めて何かを伝えようとしているが、通訳は複雑な表情を浮かべて沈黙したまま。なんと言っているかを教えてくれと言うと、「いいにくい」と悲しい顔になる。すぐに察しがついた。「子どものためにお金をくれ」と、この母親は言っているのだ。難民キャンプの取材ではこういうことがよくあり、その都度、考え込む…。

この母親にいくらかお金を渡すのはたやすいが、周りには貧しく飢えた子どもを抱える母親たちがこちらを凝視している…。“お金をもらえた人ともらえなかった人”、この不公平がキャンプ内で深刻な事件に発展することもある。

今ここで多少のカンパをすることが意味のないこととは思わないが、継続されなければ“焼け石に水”…なのは重々承知していたけれど、ポッケから取り出した500タカ札(約700円)を母親にこそっと渡し、逃げるようにその場を離れた。

一方、今回の取材で一番驚いたのは、子どもたちの明るさだった。空き地を走り回ったり、サンダルでメンコをしていたり、田んぼで泥んこ遊びをしていたり。親が殺害されたり、家が焼き払われたり…とんでもない経験をしたというのに底抜けに明るかった。

カメラをぶら下げて歩いていると、好奇の目で観察され、あっという間に取り囲まれる。泥んこの手でレンズをいじくり回すから「こら、触るな!」と叱りつけると、今度は「サワルナ!」「サワルナ!」と叫び合って追いかけっこが始まる始末…(苦笑)。

だが、彼らも賢い。撮影したいものに子どもが写りこむのを一度、「どいてくれ」と注意したら、次からはリーダーの子がカメラの前を空けるように他の子どもたちを交通整理してくれた。「記念撮影してやるからそこに並べ!」というと、きっちり整列してキラキラした笑顔を向けてくる。通訳担当がこう説明してくれた。

「少しずつ学校ができてきたので、これでも日中、外にいる子どもたちは減りました。食糧支援も不十分だけど安定的に入ってくるので、一時のような飢餓状態からは脱しました」

だが、ロヒンギャの子どもたちが故郷に帰れる日はいつになるのだろうか。

難民生活の長期化が見込まれるなか、この地に雨季が到来すれば、衛生環境が悪化するのは目に見えている。そうなれば感染症がまん延するかもしれない。子どもたちが元気に遊ぶ姿を見ながら、ロヒンギャに普通の暮らしを返す、一刻も早い救済を願った。

(取材・文・撮影/冨田きよむ)

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