米軍基地を引き取る――全国で立ち上がる市民運動「沖縄に押しつけて、自分のところには来るなというのは違う」

米軍基地を引き取る――全国で立ち上がる市民運動「沖縄に押しつけて、自分のところには来るなというのは違う」

2017年5月20日「沖縄の基地を引き取る会・東京」の初シンポジウム。左端が坂口ゆう紀さん

5月20日、東京都内で市民団体「沖縄の基地を引き取る会・東京」(浜崎眞実、飯島信共同代表。以下、「引き取る・東京」)主催のシンポジウム「基地はなぜ、沖縄に集中しているの?」が開かれた。

沖縄の米軍基地を引き取ろうとの市民運動は2015年の大阪を皮切りに、同年に福岡、2016年に新潟、そして今年の東京と立て続けに立ち上がっている。

なぜ米軍基地を引き取るのか。大阪の市民団体「沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動」(以下、「引き取る・大阪」)の松本亜希代表(34)の説明はこうだ。

「日本人が沖縄に押し付けてきた差別を解消したい。今、国民の9割近くが日米安保体制の維持が望ましいと考えています。つまり、米軍基地の存在を肯定しているのに、それを沖縄だけに押しつけて、自分のところには来るなという状況を変えたいんです」

米軍基地を引き取る――実に刺激的なフレーズだ。沖縄から米軍基地をなくしたいと願う平和運動の中でも「引き取る」運動を異端視する人は少なくない。「引き取る・東京」は4月に発足したばかりで、今回が初めての一般市民を対象にしたシンポジウムだが、登壇した4人のメンバーにもかつては引き取るという概念はなかったそうだ。

そのひとり、坂口ゆう紀さんは2010年、基地問題の聴き取りで沖縄の辺野古に行った。「基地はどこにもいらない」を訴える市民運動にも参加した。

坂口さんが引き取る運動を始めたのには、それに関する新聞記事や本を読んだことも大きかったが、決定的だったのは16年3月、沖縄で出会った70代の地元女性の言葉だった――「私が学生の時に本土から基地が移ってきた。悔しかった。哀しかった。元の場所に戻してほしい」

実は、沖縄に基地が多いのは新設ばかりではなく、日本各地にあった米軍基地の移転も多いからだ。

第二次大戦終結のため、日本と連合国48ヵ国とが結んだ「サンフランシスコ講和条約」が発効した1952年、在日米軍基地面積が沖縄に占める割合は約10%に過ぎなかった。それが72年の返還時にはほぼ50%となり、現在は約70%。これは新しい基地が沖縄に建設されただけではなく、日本各地の米軍基地が沖縄に移設したからだ。

例えば53年、アメリカ海兵隊は第三海兵師団として本土に駐留。司令部がキャンプ岐阜(岐阜県)とキャンプ富士(静岡県)、部隊は神奈川県横須賀市、静岡県御殿場市、滋賀県大津市、奈良県奈良市、大阪府和泉市・堺市に駐留していたが、57年、この海兵隊が沖縄に移駐する。先行研究によれば、反基地運動の激化で、それが反米運動に転嫁することを両政府が懸念したのがひとつの理由だ。

さらに76年には、山口県の岩国・第一海兵航空団が沖縄に移駐する。これに沖縄県議会や県内政党は「犠牲を県民に押し付けるのか」と一斉に反発した。79年には同じ岩国から海兵隊部隊が沖縄に移設。福岡県でも米軍の板付空軍基地やキャンプハカタなどが72年までに沖縄に集約されていく。

この明らかな沖縄への押し付けの事実。坂口さんは、この女性との出会いを機に引き取る運動に関わろうと決意。東京でそのための学習会が開催されたのはその直後で、それに参加した。

一方、大阪府の松本さん(前出)が「大阪に米軍基地を引き取る」と明言し、「引き取る・大阪」)を設立したのは15年3月。 実際に、府内8ヵ所を引き取る候補地として掲げ、その最寄り駅などでビラまきやスピーチなどの街宣活動も展開している。

松本さんもいきなり引き取り運動を始めたのではない。大学時代の2003年、高校時代の先輩に米軍基地問題の講演会に誘われたのがきっかけだ。その年、米軍はイラク戦争を開始し、沖縄からも出撃した米兵がいることを知る。

沖縄の人は基地とどう対峙しているのか?  その関心から同年夏、辺野古で基地問題に取り組む住民たちを尋ねた。国の高圧的な米軍基地建設のやり方に反発を覚え、04年5月、辺野古のプレハブ小屋に泊まり込みながらの座り込み行動に参加。1週間で帰る予定だったが、滞在するうちに「もっといよう」との気持ちが強くなり、2ヵ月にまで延びた。

そして「このままここにいていいのかな。私がすべきことは?」と考え始めたという。現地からは「専従スタッフをやらないか」との声もあったが断った。それよりも、地元の大阪でこそ沖縄の問題を広く認知してもらうほうが大切と思ったからだ。

大阪に帰ると、05年春に卒業。就職するが、同時に辺野古で出会った人とともに市民団体「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」(以下、大阪行動)を設立。活動の目的は「基地建設の白紙撤回」と「普天間飛行場の即時閉鎖」だった。

毎週土曜日、10から20人の仲間と共に大阪駅前で街宣行動を始める。辺野古の写真の展示、署名活動、ビラまき、スピーチ…やれることはなんでもやった。活動を開始した当初、驚いたのは、「辺野古」を「へのこ」と読める人すら少なかったことだ。沖縄での出来事はまさしく他人事なのか…。

「やるべきは、とにかく世論を動かすこと。沖縄がこれだけ基地建設に反対しているのに計画撤回されないのは、世間の99%が声をあげないからです。そこをなんとしても打破しようと思いました」

そのうち、活動の成果もあり、街宣行動への市民からの反応がよくなり、辺野古の現状も認識され、4万筆以上の署名を大阪の沖縄防衛局に届けることもできた。だが、松本さんの中では徐々に「いつまでもこの方向性でいいのか?」との疑問が膨れ上がる。活動を展開するほどに「米軍基地撤去」をイメージできなくなっていたという。

米軍基地を引き取る可能性については、大阪行動でも議題として話し合われたことはある。松本さん自身、07年、ある集会で沖縄の女性から普天間飛行場の県外移設を求める署名を求められたこともある。だが、基地解消にはつながらないと署名しなかった。

鳩山由紀夫首相が普天間飛行場の移設を「最低でも県外」と公言した際、個人的には「お、言ったか」と思ったが、それを否定しないまでも、大阪行動として賛同することはなかった。

結局、「最低でも県外」の立ち消えに沖縄県民の多くが落胆するが、この時、記者の知人で沖縄の基地問題に関わる何人かは「立ち消えてよかった」と口にした。なぜなら、在日米軍基地をなくすことが彼らの目的だったため「国内移設」はその真逆になるからだ。

大阪行動もまさしくそれを絶対の目標と掲げて奮戦してきた。だが、松本さんが「米軍基地撤去」をイメージができなくなったのは「沖縄の状況は良くなるどころか、むしろ悪化している」ためだ。

「反対運動だけではダメ、方向性を変えなきゃ」と思った松本さんが運動で痛感したのは、多くの人が「沖縄は大変だなあ」と理解は示すものの、その痛みを他人事で捉えていたことだった。日本の一部である沖縄の問題は、「本土」の人間からすれば「本土ではない」沖縄の問題に過ぎないのだ。

だが新たな方向性は? そう悩んでいた時に指針を与えたのが14年3月、大阪行動を研究の一環で訪れた池田緑や桃原一彦といった社会学者との出会いだった。それによって、自身のポジショナリティ(社会的な立場性)に気づき、これが引き取る行動へとつながる。

「ポジショナリティ」とは何か――。もうひとり、松本さんに大きな指針を与えたのが、哲学者である高橋哲哉教授(東京大学大学院)だ。その研究分野に戦争の歴史や戦後責任もあるが、福島第一原発事故で全町避難という犠牲を払った福島県富岡町に一時期住んでいた高橋教授は事故翌年の2012年、「犠牲のシステム――福島・沖縄」(集英社新書)を上梓している。

その著書で、原発推進政策が生み出した福島の犠牲と日米安全保障体制が生み出した沖縄の犠牲を描き、これらは「誰かが」押し付けたものであり、それをやめるべきと主張。そして「だれにも犠牲を引き受ける覚悟がなく、だれかに犠牲を押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても原発についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか」と結んでいる。

14年3月以降、こうした有識者との出会いを経て、自分の考えを整理できたという松本さんは、沖縄に犠牲を押し付けているのが「本土」であり、その一員であるヤマトンチューの自分も、差別の意識はなくても差別者であるとのポジショナリティを確認する。

それは04年、辺野古での座り込みでも感じていたことではあった。開始から1週間、松本さんは、沖縄の現地女性から拒絶された。「手伝いますよ」と言っても「あっちに行ってて」とかわされ、現場のイベントでスタッフのひとりが「司会は亜季ちゃんにお願いしよう」と言っても、「でもヤマトンチュでしょ」と拒む人もいた。なぜヤマトンチュが拒まれるのか…腑に落ちず、泣いた松本さんが2ヵ月間も滞在したのは「このままでは帰れない」と思ったからだ。

その2ヵ月間で「本土」と沖縄との距離を見たこともある。例えば、本土から市民運動家らが貸し切りバス3台でやってきては「連帯しましょう!」と現地を励ます。その大人数に付き合うため、沖縄の現状を必死に説明し、各地を案内する現地の人たち。彼らが本土に帰ったあとに残るのは案内に疲弊した沖縄のおじいやおばあだった。これが「連帯」なのか――。

現地を見た市民運動家は、本土で「基地をなくそう」と訴える。この行動自体は必要だろうが、かつて松本さん自身も同じ行動をしていただけにわかることがある。

「今なら私を拒んだ沖縄の女性たちの気持ちがわかります。辺野古や高江で闘っている人たちは尊敬すべきです。でも、本土から来る人の中には『私は沖縄のために闘っている』と、本土の立場性から免れていると思っている人がいる。闘うことがその免罪符じゃない。まずは自分たちの立場性をはっきりさせたいと思いました」

もちろん、目指すは「米軍基地撤去」。だが14年、活動10年目の節目に思ったのが「差別者」として沖縄に基地を押し付けている「本土」こそ、その負担を引き受けることが大切ということ。沖縄県民が望んでいる「県外移設」は、本土からすれば「引き取り」になる。それをすることで、他人事から自分事として基地問題への世論が高まるのではないのか。

そして14年夏、大阪行動の会議で松本さんは「米軍基地を大阪に引き取る運動をやりたい」と明言した。

「この時は、もう自分ひとりでもやるとハラをくくっていました。言うからにはやる。もうそれしかないって」

大阪行動には中心メンバーが十数人いたが、何度話し合っても、引き取る運動は大阪行動の方針とは相容れないとの意見が相次いだ。「日米安保を永続させてしまう」「基地被害への責任を取れるのか」等々の意見が突き付けられたのだ。

それでも4、5人が賛同し、15年3月に「引き取る・大阪」が設立した。設立時、松本さんは以下の文章を書いている(要約)。

「日本の沖縄への態度を何と言い表せばいいだろうか。圧力、強行、恫喝、暴力、差別…(中略)私が米軍基地反対のために使っている言葉は結局、自分のための、自分の平和で安全な日々を守るための言葉でしかなかった。沖縄の基地を引き取る行動を始めるまで長い年月がかかった。それは、揺るぎなく、自分の立場を認識することであり、その立場から自分がふるっている暴力や差別の責任を負おうとする行為でもあったから。

これらの経験を不安に思う人がいるかもしれない。自分の安寧を脅かす、足元がぐらつく行為だと。でもそれは違う。これは自分の足でしっかり立つという、自分でしか決められない確かな経験だと思う。ある沖縄の人はそれを『超かっこいい生き方!』と言っていた。基地を引き取ると決めることで、前に進むことがけっこういっぱいある」

◆第2回⇒在日米軍の基地移設を他人事でなく引き取れるか――「自分のところにだけは来るな」は沖縄への差別

(取材・文・撮影/樫田秀樹)

関連記事(外部サイト)