戦後の日韓外交はカネありき、これが後に大きな禍根を残した

戦後の日韓外交はカネありき、これが後に大きな禍根を残した

日韓外相会談の冒頭、握手を交わす韓昇洲韓国外相(左)と河野洋平外相(写真/共同通信)

 54年前の1965年に日韓基本条約が締結されてからの数十年間、日本と韓国は現在とは見違えるほどの“友好”に満ちていた。

 当時は慰安婦問題や首相の靖国神社参拝が紛争化することはなく、日本からの経済協力で日本企業が韓国に進出し、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げた。その後も両国の経済関係は蜜月が続き、親善窓口となる日韓協力委員会や日韓議員連盟には与野党の国会議員がこぞって参加した。日本では「親韓派」が、韓国では「親日派」の政治家が政権中枢にいた。そしてメディアもまた、その“友好”を伝え続けた。

 だが、そうした時代から、現在の安倍晋三・首相や文在寅・大統領ら「反韓」や「反日」を露わにする為政者登場の“種”は植え付けられていた。

 日韓外交の在り方を考える材料として、戦後、日本と韓国それぞれの政治家が外交の場でどう振る舞い、現在の日韓関係の混迷に至ったのかを辿った。

 浮かび上がってきたのは、両国の歴代の主要政治家たちによる、「その場限りの利権や贖罪のための友好」という、「善隣外交(隣国との友好を深めるための外交政策)」とは似て非なる成り立ちだったことである。

 日韓の国交が始まってから54年。その間に「カネ」と「利権」の構図が現在まで繋がる形となっている。

◆「祖父と大叔父が深く関与」

 現在の韓国に強硬姿勢を続ける安倍晋三・首相と河野太郎・外相だが、歴史を遡れば戦後の日韓の国交樹立は、彼らの祖父の功績だった。「昭和の妖怪」の異名をとる岸信介・元首相と、「竹島密約」の当事者とされる河野一郎・元副総理である。

 戦後の日韓国交交渉(予備会談)は、朝鮮戦争さなかの1951年に米国の斡旋で始まる。だが、佐藤栄作内閣で日韓基本条約が締結(1965年)に辿り着くまでに、日韓双方の主張は激しく対立し、何度も中断された経緯がある。

 それを大きく前進させたのが「アジア積極外交」を掲げて首相に就任した岸氏だった。日韓の裏面史に詳しい菅沼光弘・元公安調査庁第二部長が指摘する。

「戦後の日韓交渉は、岸氏や安倍首相の地元の山口県と深い関係がある。韓国の李承晩政権は、日本海で操業する漁船を次々に拿捕し、山口県在住者を多く含む日本人船員が韓国に抑留された。彼らを帰国させるためにも、岸氏は韓国との外交関係を急いで築かなければならなかった背景がある」

 拿捕された漁船は最終的に327隻、抑留船員は3911人にのぼった。

 首相兼外相の岸氏は、戦前に日本が韓国に残していた資産の補償を求める請求権の主張を撤回。また、日本で罪を犯して強制退去処分を受けた韓国人を送還せずに日本に残ることを認めるなど、韓国に大幅譲歩する内容の日韓共同コミュニケ(1957年12月)を発表し、国交交渉の再開に道筋をつけた。

 背景には、朝鮮戦争の休戦(1953年)後、共産主義の防波堤となっている韓国と日本との関係回復を求める米国の要請があったとされる。岸氏は首相退陣後も日韓外交に深く関わり続けた。

 次の池田勇人内閣で日韓交渉は合意に向かう。軍事クーデターで政権の座に就いた朴正煕・大統領は、日韓国交樹立に力を入れた。「危機的状態にあった韓国経済を立て直すために、日本からの賠償金を得たいという事情があった」(前川惠司・元朝日新聞ソウル特派員)とされる。

 この時、最大の懸案となったのが竹島(韓国名・独島)の問題だった。『竹島とナショナリズム』などの著書がある在日コリアンのルポライター・姜誠氏が語る。

「当時、日本側で交渉にあたったのは大野伴睦・自民党副総裁だったが、亡くなったために建設大臣だった河野一郎氏が引き継ぐ。そして河野氏は韓国の丁一権・首相との間で『(竹島は)解決せざるをもって解決したと見なす』という密約文書を交わした。河野派の若手議員だった宇野宗佑氏(後の首相)が密使となって訪韓し、サイン入りの文書を丁首相に渡したとされています。朴大統領も承認し、日韓基本条約では竹島に触れないことで合意した」

 評論家の藤井厳喜氏が指摘する。

「日韓基本条約の交渉の時が唯一、竹島を日本が取り戻すチャンスだったといえるが、『竹島密約』はそれを事実上放棄する結果を招いてしまった。河野氏らは基本条約の成立を優先したわけだが、その竹島が現在の日韓対立の材料の一つになっているのは皮肉としか言いようがない」

 日韓基本条約は岸元首相の実弟、佐藤栄作・首相の下で調印された。安倍首相の大叔父にあたる。当時、韓国では基本条約反対デモが吹き荒れ、政情不安が高まっていた。

 調印に先立って訪韓した岸派幹部の椎名悦三郎・外相は金浦国際空港に到着するや、「両国間の歴史に不幸な期間があったことは遺憾であり、深く反省している」と、声明を発表。日本政府要人による初めての“謝罪”の言葉だった。

 椎名声明は韓国国民の反日感情を和らげ、経済危機で窮地に陥っていた朴大統領を救い、基本条約締結を決定づけたとされる。

 そうした経緯を安倍首相は、2015年に開かれた日韓国交正常化50周年記念式で「50年前の当時、私の祖父の岸信介や大叔父の佐藤栄作は、両国の国交正常化に深く関与しました」と総括している。

◆日韓政財界が「利益共同体」に

 基本条約とそれに伴う日韓請求権協定が締結されると、日本から韓国に巨額の資金が流れ込む。

 韓国が日本に戦後賠償を求めたのに対し、日本は当時の韓国の国家予算の2倍にあたる5億ドル(無償3億ドル、有償2億ドル)の経済協力を行なうことで合意した。そこには、「徴用工などへの個人補償」も含まれていた。

 この補償金が日韓の政治利権へと化していく。日本からの経済協力は現金ではなく、日本政府が日本企業から車両や重機や工作機械などを買い上げて韓国に渡したり、日本企業がインフラや製鉄所などを現地に建設したりするというスキームだった。

 商社やメーカーはこの資金で次々に韓国に進出する。援助を受けた韓国企業の中から財閥が生まれ、朝鮮戦争で打撃を受けた韓国経済は朴政権の下で「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる成長を遂げていく。

 援助物資を日本企業から買い付けるのは日本の政治家、韓国でどの企業に配分するかを決めるのは韓国の政治家であり、日韓の政界と財界は、国境をまたいだ“利益共同体”として結び付きを強めていく。

「この経済協力に強い影響力を持っていたのが日韓協力委員会で、日本側の会長は岸さん、椎名さんもメンバーでした。日本の経済協力には戦後賠償という意味に加え、親韓派の政治家たちによる補償金の利権化という狙いがあった。それが日韓の関係を歪めてしまったといえる」(前出・前川氏)

 岸氏は1987年に90歳で亡くなるまで日韓協力委員会の会長を務め、その後、会長は福田赳夫・元首相、中曽根康弘・元首相へと引き継がれた。現在は麻生太郎・副総理が会長だ。そうした“カネありき”の日韓外交は大きな禍根を残す結果になった。

※週刊ポスト2019年9月20・27日号

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