インドネシアが独立宣言文に日本の「皇紀」を採用した想い

インドネシアが独立宣言文に日本の「皇紀」を採用した想い

PETA(祖国防衛義勇軍)博物館前に立つ兵士像

「大東亜共栄圏」は侵略戦争の方便だったと旧連合国は主張する。自らの植民地支配を棚に上げて。だが、インドネシアの人々は、独立のために日本が本気で支援したことを今も忘れていなかった。ジャーナリストの井上和彦氏が、世界で見つけた「日本よ、ありがとう」の地をめぐる旅。台湾、フィリピンに続き、インドネシアをリポートする。

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 首都ジャカルタにある「独立宣言起草博物館」には、大東亜戦争終結後の8月17日、後の初代大統領スカルノと副大統領ハッタらが読み上げた独立宣言文の原文が掲げられている。

 インドネシアの独立を謳い上げた宣言文はもちろんインドネシア語で書かれているのだが、日付が「17-8-05」とある。なるほど独立宣言は、終戦2日後の1945年(昭和20年)8月17日だったのだから「17-8」は読み取れる。だが「05」はよくわからない。

 驚くなかれ、それはなんと日本の「皇紀2605年」のことなのである。

 同博物館は、元は前田精武官の邸宅だった。当時ジャカルタに駐在武官として赴任していた前田海軍少将は、終戦翌日の8月16日に、後の大統領スカルノと副大統領ハッタら50人の志士を邸宅に招き入れ、彼らはそこで独立宣言文を起草した。そして翌17日、スカルノ邸で、赤と白のインドネシア国旗が掲揚され、独立宣言文は高らかに読み上げられたのだ。

 同博物館にはスカルノらが独立宣言文を起草したテーブルや手書きの起草案の拡大写真など貴重な資料が展示されている。

 2014年8月16日、筆者が、69回目の独立記念日の前日にこの博物館を訪れたとき、記念日を祝う人々で賑わい、スカルノ大統領とハッタ副大統領のそっくりさんまでもが登場して盛り上がっていた。そしてインドネシア国旗にちなんだ赤いスカーフと純白の衣装を身に着けた青年たちが祝賀パレードのために整然と並び、先頭に立つ両端の2人がスカルノ大統領とハッタ副大統領の写真を胸に抱き、真ん中の女性は独立宣言文の写真を抱いていた。

 インドネシアの人々にとって独立宣言文は、愛国心とアイデンティティーの源泉といってよかろう。

 その起草の日付に皇紀を採用したインドネシア──もしも日本軍の進出と軍政が同国の人々に恨まれていたのなら、皇紀など使われなかったであろう。そう、350年におよぶオランダの過酷な植民地統治に苦しんできた人々は、日本軍を歓迎したのである。アラムシャ元第3副首相はこう述べている。

〈我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、三百五十年間に亘り、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡智なスパイ網と、強靱な武力と、過酷な法律によって、圧倒され壊滅されてしまった。

 それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激したのは当然である〉(ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』展転社)

◆“黄色い人が白い人を追い出す”

 インドネシア人の日本軍歓迎は、地元に伝わるある予言を抜きには語れない。

“ジョヨボヨの予言”だ。

 1942年(昭和17年)1月11日、蘭印攻略戦の第一歩となる海軍落下傘部隊によるセレベス島メナドへの空挺作戦が行われた時、日本軍部隊は地元の人々に大歓迎された。というのもこの地方には“白い人に長い間支配されるが、北の方から黄色い人がやって来て白い人を追い出す”“わが民族が危機に瀕するとき、空から白馬の天使が舞い降りて助けにきてくれる”という予言が語り継がれていたからだ。これは12世紀に東ジャワのクディリ王国の王・ジョヨボヨが宮廷詩人に命じて古代インドの民族叙事詩をジャワ風に翻訳させたものが元になっている。

 つまり地元の人々は、空から舞い降りてくる黄色い人=日本軍落下傘部隊を救世主の到来と捉え大歓迎したのだった。翌月2月14日に行われた陸軍落下傘部隊によるスマトラ島パレンバンの製油所に対する空挺作戦のときも同様だった。

 さらにジャワ島のスラバヤ攻略戦に参加した戦車第4連隊第3中隊第1小隊長・岩田義泰中尉は、かつて私にこう語ってくれた。

「……地元の人々は我々を大歓迎してくれました。それには、こんな理由もあったんです。“インドネシアが困ったときには、北の優秀な民族が応援に駆けつけてきてくれて治めてくれる”といったような伝説が残っていたんです」

 もちろん日本軍の蘭印侵攻作戦の最大の目的は、ABCD包囲網で輸入できなくなっていた石油など工業資源確保であり、日本の国家存亡をかけた戦いであった。だが同時にこの戦いは、350年にもおよぶオランダの植民地支配を終焉させ、後にインドネシアを独立させるためでもあった。

 日本軍最高司令官の今村均中将の軍政は、オランダ支配下では考えられなかった地元民に対する教育および医療制度の整備、インドネシア語の普及、そして後の独立に向けた人材育成のためインドネシア人の政治意識の醸成に力を入れた。日本軍はオランダを降伏させるや、ただちに政治犯として獄中にあったスカルノとハッタを救出したことからも、日本が後にインドネシアを独立させようとしていたことは明らかだろう。

◆独立戦争で共に戦った日本兵

 こうした日本軍による統治のなかでも、後の独立戦争で中心となって戦ったインドネシア初の軍隊組織「PETA」(ペタ=祖国防衛義勇軍)を創設したことは最大の功績といえよう。

 PETA兵士は日本軍の教練通りに訓練され、軍服も振る舞いも日本陸軍そのもので外見もそっくりだ。驚くべきはPETAの旗だ。「大団旗」と呼ばれるこの旗は、日本の旭日旗をベースにデザインされたのだ。

 だが、日本が敗戦すると、かつての宗主国オランダやその盟友イギリスがインドネシアを再び植民地支配しようと舞い戻ってきた。

 こうしてインドネシア独立戦争が始まった。PETAが中心となって立ち上がり、紆余曲折の末に日本軍から大量の武器が人々の手に渡って、彼らはその武器で戦った。武器がいき渡らなかった者は、竹槍をもって近代装備のオランダ軍およびイギリス軍と戦ったのである。

 そして、祖国日本が敗れてもなお、2000人に上る日本軍将兵が日本への帰還を拒み、残留してインドネシア独立のために再び銃を取ったのだった。彼らは、かつて自分たちの到来を大歓迎してくれたインドネシアの人々を見捨てて帰国することなどできなかった。 彼らは、愛する家族との再会の夢を捨て去り、インドネシア独立のために戦った。そうして1949年(昭和24年)12月までに1000人もの日本兵が戦死し、生き残った者の多くは独立後も現地に留まって終生インドネシアで暮らしたのである。

 残留日本兵達は、ジャカルタの「カリバタ国立英雄墓地」などに眠っている。彼らは、インドネシア独立戦争を戦い抜いた“英雄”として讃えられているのだ。

 歴史には光と影がある──。戦場となった地域では尊い命が犠牲となり怨嗟の声もあったことだろう。だがインドネシアの人々は、350年にわたる過酷なオランダの植民地支配を終焉させ、教育を施し、そして大東亜戦争後も独立戦争で一緒に戦ってくれた日本軍と将兵の大きな貢献を決して忘れず、今でも日本に感謝の気持ちを持ち続けてくれているのである。

【PROFILE】いのうえ・かずひこ/1963年生まれ。法政大学社会学部卒。軍事・安全保障・国際政治問題を中心に執筆活動を行う。著書に『大東亜戦争秘録 日本軍はこんなに強かった!』(双葉社)、『撃墜王は生きている!』(小学館文庫)など。

※SAPIO 2018年1・2月号

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