ロシア人の親日の背景にシベリア抑留者への畏敬の念あり

ロシア人の親日の背景にシベリア抑留者への畏敬の念あり

「鷲の巣展望台」から見下ろすウラジオストクの軍港

 日本人の記憶には、ソ連による日本侵攻、シベリア抑留という黒い歴史が深く刻まれている。だが、実際にロシア人と接すると、彼らが非常に親日的だとわかる。等身大のロシアと彼の地に残された日本の人道支援の歴史を、井上和彦氏がレポートする。

 * * *
「ありがとうございました……ご苦労様でした……」

 私は墓標に向けて手を合わせてつぶやいた。墓標には「日本人墓地」と刻まれている。

 ここはハバロフスクの日本人墓地──大東亜戦争終結後にソ連によって不法にシベリアへ連行され、過酷な強制労働を強いられてこの地で亡くなった日本軍人・軍属の墓地である。

 日本人抑留者は57万5000人に上り、そのうち5万5000人が強制収容所で死亡。ハバロフスクでは最も多い1万1000人が亡くなった。強制収容所跡地にはシベリア平和慰霊公苑が整備され、日本政府によって1995年(平成7年)に竣工された立派な日本人死亡者慰霊碑がある。

 そしてレーニン広場には、日本人抑留者の手になる大きな“遺品”がある。

 抑留された日本軍人・軍属によって建てられたビルがいまも国家公務員大学校として使われているのだ。初めてハバロフスクを訪れたのは冷戦終結後間もない頃だったが、当時の話では、ソ連時代の建物はすぐダメになるが、日本人抑留者が建てた建物は頑丈で、そのことがロシア人をして日本人に対する畏敬の念を抱かせているとのことだった。

 囚われの身となっても日本人の誇りを守り続けた先人を思い、私は複雑な誇りを感じた次第である。

 日本人にとって強制労働の苦々しい記憶が染みついたハバロフスクは、19世紀に東方進出してきたロシア帝国によって拓かれ、1860年の北京条約によって清国からアムール川東岸地域が割譲されて発展した。

 その後、1914年に勃発した第一次世界大戦最中の1917年にロシア革命が起きる。極東のハバロフスクもその影響を受けた。

 当時ロシアは、英・仏・伊・米・日本など連合国側に立ち、独・墺など同盟国と戦っていたのだが、各国は革命が波及することを恐れロシア革命に対する干渉戦争「シベリア出兵」(1918年8月)を行った。こうして日本・英・米・加・仏・伊などがシベリアに軍隊を送ったのである。

 日本軍は1918年8月にウラジオストクに上陸した後、北上してハバロフスクを占領し、西はバイカル湖のあるイルクーツクまで進出したのだった。

◆圧倒的に親日派が多い

 さてそんなハバロフスクから南へおよそ800kmのウラジオストクへはシベリア鉄道で行く。

 21時の寝台列車オケアン号でハバロフスク駅を出発。寝台はなかなか快適だ。一緒に行った友人と食堂車でビールを飲んでいると、隣のテーブルのロシア人男性2人が、ウォッカを飲むかと誘ってくれた。

「あんたは日本人か?」

 2人のうちの1人が聞いてきた。「そうだ」と答えると、「それならフレンドじゃないか!」と言って握手とあいなった。ここから日露の“飲み合戦”が始まった。そしてボトルを空にした我々は、固い握手とハグを繰り返した後、それぞれの寝台車に戻って深い眠りについたのだった。

 ロシア人が親日であることは、以前からの私自身の体験で分かっていたが今回もまたそうだった。

 ここに面白いデータがある。日本の外務省が2016年(平成28年)に行ったロシアの対日調査によると、ロシア人の78%が日露が友好関係もしくはどちらかというと友好関係にあると答えており、さらに97%ものロシア人が、ロシアにとって日本との友好関係は重要もしくはどちらかというと重要と答えている。

 なるほど、私はこれまで旧ソ連時代を含め何度もロシアを訪れたが、確かにロシア人は親日的で、嫌な思いをしたことがない。むしろ戦後の焼け野原からあっという間に、戦勝国アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国に上り詰めたことに対する畏敬の念や憧れの言葉を耳にすることが多い。ロシアでは、中国や韓国のように反日教育が行われていないことも原因なのかもしれない。

◆日本が誇る人道支援の拠点

 シベリア鉄道の終着駅ウラジオストク。ハバロフスクと同じく北京条約で沿海州地域を獲得したロシアによって拓かれたこの港町は、ロシア語で“東方の支配”を意味する「ウラジオストク」と名付けられ、その後、ロシアの東方の重要な軍港として発展した。

 米ソ冷戦期には外国人の立ち入りが禁止されていたが、現在では世界各地から観光客が訪れ、「鷲の巣展望台」からはロシア海軍艦艇が停泊する金角湾を一望できる。驚きとある種の戸惑いが湧き上がってくる。あれほど秘密にされてきた軍港が丸見えなのだ。

 停泊した軍艦が見え、修理中の潜水艦も確認できる。軍港を守るために築かれた数々の要塞も博物館として公開されており、冷戦期にはまったく考えられなかったことだ。

 そんな軍港に、『収容所群島』の著者でノーベル文学賞作家のアレクサンドル・ソルジェニーツィンの銅像が建つ。ソ連から国外追放され亡命生活を強いられていた彼が、ソ連崩壊後の1994年5月に亡命先のアメリカから戻って来たときに最初に足を踏み入れたのがウラジオストクだった。ロシア海軍艦艇を目の当たりにし、ソルジェニーツィンの銅像が建つその光景に、共産主義の恐怖を脱して“自由”を勝ち取ったロシアの変化を実感する。

 ウラジオストクで忘れてはならないことがある。ここがポーランド孤児救出とユダヤ人救出という、日本が世界に誇る人道支援の拠点だったことである。

 18世紀後半から始まった列強による「ポーランド分割」で帝政ロシアはポーランド領を侵食し、シベリアには強制移住させられた多くのポーランド人が暮らしていた。1917年にロシア革命が起こり、翌年に第一次世界大戦が終結してようやくポーランドは独立を回復するも、シベリアのポーランド人は帰国できずに取り残されていた。そこへロシア革命から生じた内戦が追い打ちをかけ、彼らは困窮を極めて餓死者や凍死者が続出したのである。

 惨状を知ったウラジオストク在住のポーランド人が「ポーランド救済委員会」を立ち上げた。だが資金不足で、すべてを救うことは不可能だった。せめて子供たちだけでも祖国ポーランドへ帰してやりたいと駆けずり回った。そのとき、日本赤十字とシベリア出兵していた日本軍が立ち上がったのだ。シベリア出兵で最後まで撤退しなかった日本に対しては批判があったが、その点では残留が奏功した。

 こうして日本軍と日本赤十字は、1921年から1922年にかけて765名のポーランド孤児を救ったのである。

 そしてさらに、その20年後、今度はウラジオストクから日本がユダヤ人の命を救ったのだった。1940年7月、ナチスの迫害から逃れるためにリトアニアの日本領事館に通過ビザを求めるユダヤ人が詰めかけてきた。外交官の杉原千畝が大量のビザを発給して、約6000名ものユダヤ人の命を救ったことはよく知られている。彼らはシベリア鉄道でウラジオストクに辿り着き、そこから船で敦賀に脱出したのだった。

 日本はこのウラジオストクから、765名のポーランド孤児と、6000名のユダヤ人の命を救ったのである。この人々にとってウラジオストクは、日本が開いてくれたまさしく“自由の扉”だった。

 そんな誇りある歴史に思いを馳せながらウラジオストクの空気を思い切り吸いこんでみると、なんともいえず爽快な気分になる。

※SAPIO 2018年3・4月号

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