【特派員発】ベルリンの壁崩壊後も心には壁 ドイツ東部・シュプレンベルク

【特派員発】ベルリンの壁崩壊後も心には壁 ドイツ東部・シュプレンベルク

独東部シュプレンベルクのシュバルツェプンペ地区の民家近くにある火力発電所(宮下日出男撮影)

 戦後ドイツの東西分断を象徴した「ベルリンの壁」が1989年に崩壊してから、9日で30年となる。すでに壁があった月日より、なくなってからの方が長くなった。だが、旧東ドイツ地域では旧西ドイツ地域との間で残る経済格差への不満がくすぶり、「二級市民」扱いされているとの感情も強いようだ。旧東独の人々の心中でなお消えない「壁」の姿を追った。(宮下日出男)

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 ▼ポイント

 (1)旧東独地域ではポピュリズム政党が伸長

 (2)その背景には旧西独との経済格差や劣等感

 (3)若者世代は東西の溝克服にも動いている

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 ■東西統一30年は「格闘の毎日」

 ベルリンから南東へ電車を乗り継ぎ約2時間。シュプレンベルク市でバスに乗り換え郊外に出ると、もうもうと蒸気が立ち上る火力発電所が現れた。「シュバルツェプンペ」と呼ばれるこの地区は東独時代、付近で採掘される褐炭を用いた電力・ガスの一大生産拠点だった。エネルギー産業は今も地元経済を支える。

 近くで事務所を構えるのは、9月のブランデンブルク州議会選で当選した右派ポピュリズム(大衆迎合主義)政党「ドイツのための選択肢」(AfD)のミヒャエル・ハンコ議員(54)。首位の中道左派、社会民主党に迫る第2党に躍り出たAfDの候補で最高の約36%を得票し、シュバルツェプンペ周辺での得票率は50%前後に上った。

 「市民のいらだちの表れだ。東西ドイツ統一後、有権者はもう一度、何かを変えたいとの希望をAfDに託したのだ」。ハンコ氏は選挙結果を誇った。

 ◆経済格差埋まらず

 ブランデンブルクと同時に行われたザクセン州、10月下旬のテューリンゲン州の議会選でもAfDは第2党に躍進した。旧東独地域に顕著なAfD伸長が示す「いらだち」とは何か−。

 1990年の統一は共産党独裁体制にあった東独を民主主義、資本主義の西独に組み込む形で行われた。東独では国営企業民営化の過程で多くの企業が閉鎖や人員整理を迫られ、失業者があふれた。シュプレンベルク周辺も例外でなく、最悪時の失業率は24%。当時約10万人だったエネルギー関連分野の労働者は今や約8千人にまで減った。

 失業率は改善し、シュプレンベルク周辺も約6%に減ったが、なお旧東独は旧西独より約2ポイント高い。所得や年金の格差も残る。拠点を置く大企業はほとんどなく、人口は旧西独に流出。約2万3千人のシュプレンベルクの人口は数年後、2万人を割ると試算される。メルケル首相は旧東独育ちだが、政界や学術界で要職の大半を占めるのは旧西独出身者だ。

 「ストレスの多い30年だった」。シュバルツェプンペの通りでこう振り返るのは、この間、4回も職を失ったというAfD支持の男性派遣労働者(63)。「壁崩壊時の期待は満たされず、置き去りにされた」との思いが振り払えない。

 そんな不満は2015年の大量の難民・移民が流入後、AfD急伸という形で表れた。メルケル氏の寛容策を批判し、「移民よりドイツ人のために金を使うべきだ」(ハンコ氏)との主張に市民は引き寄せられ、AfDを排外主義者だと批判する政治家やメディアに支持者は「AfDだけをたたいている」(76歳女性)と反感を強めた。

 「移民を批判すれば極右のように言われる。何を言うべきか指示された旧東独の独裁体制のようだ」。ハンコ氏はAfD独特の論を展開。ハンコ氏に投票した自営業男性はこう声を荒らげた。「統一は旧西独側の自己満足でしかない」

 地元では当惑が広がる。市中心部で雑貨店を営む女性のクリスティナ・チパクさん(62)はAfDに警戒心を示す一方、「AfDへの支持は既存政党への抗議だ。気持ちは理解できる」とし、「難民は助けるべきだが、政府の政策を批判したからといって、とがめられるべきではない」と語った。

 チパクさんは「統一後、すぐに東西の人が一つになれると思ったが、西の人は異なる人々だと感じるようになった」とも漏らす。新たな環境への適応に腐心した統一後を「格闘の毎日」と振り返った上、AfDに傾斜する有権者の心情とも重ね、つぶやいた。「その苦労を西の人は想像も理解もできないと思う」

 ◆中心産業の転換迫られ

 地元には新たな荒波が寄せてもいる。政府が地球温暖化対策のため、2038年までに石炭火力発電所を全廃する「脱石炭」を打ち出し、旧東独時代から地域を支えてきた中心産業は転換を迫られた。政府は関連地域に巨額支援を行う方針だが、具体的な将来像はなお描けていない。

 メルケル氏の保守系、キリスト教民主同盟のシュプレンベルク市議団長、アンドレアス・ブレンツェル氏は「市民には統一後のトラウマがあり、再び変革がくることに不安は強い」と指摘。「政治に声が届かないと感じれば、その失望をAfDがさらに利用する」と危機感を強めた。

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 ■「自分は二級市民」旧東独に劣等感

 旧東独市民の複雑な感情は各種の世論調査にも表れている。独紙フランクフルター・アルゲマイネが7月に報じた世論調査結果によると、「自分はドイツ人」と感じるとの回答は旧西独で約7割に上ったが、旧東独では44%。これを上回る47%は「自分は東ドイツ人」と感じると答えた。

 独政府が9月に公表した報告書によると、旧東独市民を対象にした調査では、57%が自分を「二級市民」と感じており、「統一は成功した」と答えたのは38%にとどまった。

 旧東独情勢に詳しいドレスデンの政治学者、ハンス・フォアレンダー氏は調査結果について「全員ではないが、旧東独市民が持つ劣等感」の表れと指摘。経済格差が残る上、統一の大変革を克服してきたのに「旧西独の人々に価値を認められていないとの心情」が影響していると分析する。さらにグローバル化といった変革も加わり、「絶えない変化の圧力が旧東独市民に不安や動揺を与えている」と解説。移民への反発は過去接触が少なかったことに起因する「未知のものへの不安」とし、ナチス時代の反省が徹底された旧西独との違いはあるが、「旧東独市民が特に排外主義的なわけではない」とした。

 フォアレンダー氏はAfDがそんな旧東独市民の感情を「あおり、動員している」と強調。対処として「過激な主張には厳しい姿勢」を示し、同時にインフラなど「脆弱(ぜいじゃく)な経済・社会構造を強化」して不安の原因を除去する必要性を説いた。

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 ■闘う若者 相互理解へ「東」伝える

 東西分断時代を知らない若者も心の中の「壁」を打ち破ろうと格闘していた。旧東独出身の週刊紙ツァイト記者、バレリー・シェニアンさん(29)はその一人。「私は東ドイツ人。恥じ入ることはない」と主張し、東西の相互理解促進のため取材・執筆を続ける。

 「1990年生まれ」。約2年前、こう題したシェニアンさんの記事は反響を呼んだ。「壁がなくなって長くなるほど、自分は東ドイツ人と感じる」。ベルリンの壁の存在と崩壊後の期間が同じになる節目に合わせた特集を検討する会議での言葉に関心が集まり、自分の経験をつづった。

 統一の8日前に生まれ、東西の区別は「過去の話」と思っていたシェニアンさん。「東ドイツ人」と自覚する契機となったのは難民・移民の大量流入だった。

 旧西独の大学に通っていた当時、旧東独で大規模な反移民デモが起き、故郷の地方選挙でAfDが台頭。旧西独出身の友人の一人がこれに対して「オッシーの嘆き」とつぶやいた。独語で「東」を表す「オスト」から派生した「オッシー」は旧東独市民に対する蔑称。ある知人は西側が東側再建のため巨額を投じたことを踏まえ、「東の人はまだ何を望むのか」といぶかった。

 一方、シェニアンさんは記憶にない旧東独時代を詳しく知ろうと両親にたずねたが、「ドイツは一つであってほしい」と口は重かった。その後、さまざまな人々の話を聞き、人の無意識になお残る東西の溝を強く感じた。今、両親世代の心境をこう理解している。

 「旧東独の人は統一後、オッシーであることを克服し、『西の人』になることが目標だった」。秘密警察の存在など旧東独は「否定的」にとらえられがちなため、両親世代は思い出と距離を置く。

 シェニアンさんは旧東独にも、映画や音楽など独自の文化や日常生活があったと訴える。「全てが悪かったのではない。今の世代がそれを伝えず誰がやる」。「東ドイツ人」として故郷に「連帯」を示すのだという。

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【用語解説】ベルリンの壁

 第二次世界大戦後、ドイツは西ドイツと東ドイツの2つの国家に分断された。共産党独裁体制の東独政府は1961年8月、人口流出を防ぐため、西独側の西ベルリンを囲む「ベルリンの壁」を建設。89年、東独で市民デモが活発化し、東独政府は11月9日、西側への出国自由化を発表。壁が崩壊した。東西ドイツは90年10月3日に統一された。

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