人口の7割を収容可能な「核シェルター」を配備 フィンランドが独裁者プーチンに「ひるまない」わけ

■フィンランドの安全保障を、その歴史から紐解く


 世界を震撼させたロシアによるウクライナ侵攻。「経済関係を深めれば戦争は起きない」「侵略されれば、国際社会が実力を行使して守ってくれる」という幻想は打ち砕かれた。軍事大国の暴挙から、国を守るにはどうすればいいのか。

 東京大学名誉教授の北岡伸一氏の著書『世界地図を読み直す―協力と均衡の地政学―』より、隣国ロシアの圧迫から独立を守るのに腐心してきたフィンランドの歴史を紹介する。

 ***

 2018年4月下旬にフィンランドを訪ねた。首都ヘルシンキで驚いたのは、町の中心の広場にアレクサンドル2世の立像が立っていたことである。ソウルの中心部に伊藤博文の銅像が立つことは、考えられない。それと似たような驚きを感じたのである。

 私のフィンランドについての知識は、僅かなものだった。フィンランドがロシアの圧政に苦しみ、そこから立ち上がって独立を果たしたこと、ヤン・シベリウスの交響詩「フィンランディア」は、この独立運動を背景としていたこと、日露戦争における日本の勝利がフィンランドで歓迎されたこと、第2次世界大戦において、ソ連との戦いに善戦して(冬戦争)、独立を維持したこと、戦後はソ連を配慮しつつ慎重な中立外交を推進したこと、その程度だった。

■ロシアの影響下から独立へ


 フィンランドは、12世紀頃から約600年にわたってスウェーデンに支配されていた。そして19世紀初め、ナポレオン戦争を契機としてロシアの支配下のフィンランド大公国となり、ロシア皇帝がフィンランド大公国の大公を兼ねるという体制になった。その後のロシアの政策、とくにアレクサンドル2世時代(1855〜1881)のそれは、フィンランドの自治を重視した自由主義的なものだった。アレクサンドル2世の銅像は、この時代の好ましい記憶を反映している。

 しかし、その後ロシア化政策が進められ、自由は制限され、独立運動が高まった。シベリウスの交響詩「フィンランディア」(1900年初演)も、1905年の日露戦争における日本の勝利とロシアにおける革命情勢も、この頃のことだった。

 結局、フィンランドが独立を達成したのは、ロシア革命によってロマノフ王朝が倒れた後の1917年12月のことだった。その後の政治体制については流動的で、1918年に入ると、ウラジーミル・レーニンの援助を受けた赤衛隊とこれに反対する白衛隊が5カ月にわたって内戦を繰り広げ、白衛隊が勝利した。白衛隊の中心となったのが、ロシア軍ですでに中将となっていたカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(1867〜1951)だった。

 この後、フィンランドは王制になる可能性もあったが、国王に擬されていたのがドイツ皇帝の親戚であったため、ドイツの敗戦とともにこの案は頓挫して、1919年、大統領制の共和国となった。このときマンネルヘイムは出馬したが、敗れている。

■第2次世界大戦期の苦境


 フィンランドがもっとも苦しかったのは、第2次世界大戦期だった。1939年8月、独ソ不可侵条約が結ばれ、9月、ドイツはポーランドに侵入し、英仏はドイツに宣戦布告して、第2次世界大戦が始まった。同月、ソ連もポーランドに侵入し、ポーランドを独ソが分割するに至った。

 独ソ不可侵条約はバルト3国とフィンランドをソ連の勢力圏と認めており、ソ連はこの合意にもとづいて、バルト3国に対して領土的・軍事的要求を突きつけ、併合を進めた。フィンランドについても領土の交換などを含む過酷な要求を突きつけた。

 しかしフィンランドがこの要求を拒んだため、ソ連は1939年11月、フィンランドに侵入した。フィンランドはただちに崩壊すると思われたが、最高司令官に任命されたマンネルヘイムの指揮のもと、世界の常識を覆して善戦した。ソ連はこの侵略により国際連盟を除名されたが、フィンランドを助けてくれる国はなく、4カ月にわたる抗戦のすえ、1940年3月、降伏した。国土の10分の1を失ったが、なんとか独立は維持したのである(冬戦争)。

 その後も、ソ連の脅威はなお深刻だった。そのため、フィンランドはドイツへの接近を模索するようになる。ドイツも来るべき対ソ戦にフィンランドの協力を求めるようになる。1941年6月、バルバロッサ作戦によってドイツがソ連に侵入すると、フィンランドは中立を宣言したが、事実上、ドイツに対して一定の協力を行っていた。さらにフィンランドは旧領土を越えてソ連内部に軍を進めた。これは独ソ戦争とは別で、冬戦争の続きだという意味で、継続戦争という。

 しかし1943年2月、ドイツがスターリングラードで敗れると、フィンランドは苦境に立つ。ただちに戦争からの離脱をはかるが、ドイツからは協力の強化を求められ、単独不講和の約束を求められた。1944年6月、リスト・リュティ大統領はこれを受け入れ、1カ月後に辞職した。次に大統領に選ばれたマンネルヘイムは、単独不講和協定は前大統領の私的な約束であるとしてその効力を否定。ソ連との休戦交渉を開始し、1944年、ソ連に降伏した。その降伏条件には巨額の賠償金が含まれており、また、フィンランド国内のドイツ軍を駆逐するという困難な条件も含まれていた。しかし、フィンランドはその約束を果たし、ドイツ軍と戦い(ラップランド戦争)、戦争犯罪者をみずから裁き、賠償金を支払った。

 ちなみに、吉田茂はあるところで、世界で借金を必ず返すという評判の高いのは日本とフィンランドであると述べている。吉田は、賠償よりも、戦前の債務の返済を重視し、英米などから借りた金はまず返す、そうすればまた貸してくれるというのが持論だった。


■「大国を頼りにするのは危険」


 フィンランド軍を率いて戦ったマンネルヘイムは、フィンランドの国民的英雄であり、2004年には、最も偉大なフィンランド人に選ばれている。

 マンネルヘイムは1867年の生まれであり、日本で言えば、陸軍大臣として軍縮を断行し、首相候補と擬されながら果たせなかった宇垣一成陸軍大将より1歳年長だった。かつてロシア軍の将校であり、ロシア軍の一員として日露戦争に参加し、奉天の会戦で乃木希典の第3軍と戦っている。マンネルヘイムは前線から日本軍の精強を伝え、ロシアの敗北を予測していたという。

 1906〜1908年、マンネルヘイムは中央アジア探検に参加し、1万4000キロを踏破した。そのうち1万キロはほとんど単独行だった。これは学術調査であったが、同時に諜報視察旅行であった。その最後には日本にも立ち寄っている。

 すでに述べたとおり、マンネルヘイムはフィンランド独立後に白衛隊を指揮して以来、フィンランド軍の中心人物であったが、1939年のソ連との交渉については、ソ連の条件を受け入れて条約を結ぶよう主張していた。しかし彼の意見は政府に入れられず、戦争になって最高司令官に起用されたときは、すでに72歳になっていた。最前線に立ってよく戦ったが、同時に講和を急ぎ、降伏を進めた。

 冬戦争において過酷な平和を受け入れたとき、マンネルヘイムは次のように述べたという。「戦える力が残っている今だからこそ、和平協定のテーブルに着かねばならない。戦える力を失ったら、我々は何を材料に彼らと協定を結べるというのか。残されるのは完全な屈服だけだ。」

 継続戦争が起こると、マンネルヘイムは再び起用され、ソ連と戦った。対独協力に傾斜するフィンランドにあって、マンネルヘイムはなるべくドイツと距離を置こうとした。1942年の、マンネルヘイムの75歳の誕生日には、アドルフ・ヒトラーがマンネルヘイムを電撃訪問している。これは迷惑なことだったようである。そして1944年に大統領となると、ソ連との和平を進め、その義務を守って、フィンランド国内のドイツ勢力の駆逐という困難な仕事(ラップランド戦争)をも遂行した。

 マンネルヘイムは、ドイツとの同盟については次のように述べたという。「自らを守りえない小国を援助する国はない。あるとすれば何か野心があるはずだ。」「大国に頼りきることは大国を敵にするのと同じくらい危険なことだ」


■安全保障感覚の強さ


 第2次世界大戦終了後、フィンランドはバルト3国のようにソ連に併合されることもなく、東欧諸国のように社会主義化されて衛星国にされることもなく、資本主義と民主主義を守りながら、しかしマーシャル・プランによる援助も受けず、NATO(北大西洋条約機構)にもEEC(ヨーロッパ経済共同体)にも入らず、もちろんワルシャワ条約機構にも入らず、中立を守った。

 フィンランドの安全、防衛に対する意識は極めて高い。

 フィンランドには、人口の7割を収容できるという核シェルターが地下に張り巡らされている。一方で、エネルギー政策では原発依存率が高い。そしてその処理については、オンカロという有名な廃棄物処理場を作った。地下400メートル以上のところに廃棄物の蓄積場を作り、これを200年使った後は埋めてしまうというもので、この方法で10万年後に至る計画をたてている。これも安全保障感覚の強さゆえであろう。

 フィンランドは、今でも徴兵制度を維持している。男子のみ18歳以上で、徴兵拒否も認めている。

 なお日本では、徴兵制度は憲法18条が禁止する苦役であるから認められない、ということになっている。私は、徴兵制度は必要ないと思っているが、この解釈はひどい。世界の多くの国で、兵役は国民の神聖な義務だということになっている。フィンランドのような平和愛好国家も、これを国民の義務としている。日本で苦役なら、外国でも苦役のはずである。徴兵が苦役であるとは、世界の常識とかけ離れたとんでもない解釈であって、日本の憲法学のガラパゴス性を示す顕著な例である。

 またPKO(国連平和維持活動)は現在、2018年6月現在、警官15名、兵員298名、その他29名で、合計342名である。人口550万の国としてはかなり多い。日本は兵員ゼロである。

 フィンランドが遠くの国の平和にまで熱心なのは、第1に人道主義的な理由からだろう。しかしそれ以外に、世界で紛争が頻発し、それを力で解決する風潮が横行しては困るからだと、私は考えている。国際紛争を力によって解決しないというのは、国連憲章1条2条、および憲法9条1項(私は2項には反対だが、1項は強く支持している)と同じである。2度の大戦争を越えて人類が到達した重要な原則である。しかし、大国はしばしばこれを無視して、力で問題を解決しようとする。最近、ロシアのクリミヤ併合など、そういうことが増えている。そういうことに、フィンランドは不安を覚えるだろうし、日本ももっと真剣に考えるべきだろう。


■思慮深い外交はあるのか


 ともあれ、フィンランドはロシアの圧力に対して、思慮深い判断をし、抵抗し、あるいは妥協した。そこには、マンネルヘイムのようなリーダーがあり、彼を支持した国民がいた。

 マンネルへイムについては、左翼に厳しいとか、ときに優柔不断だったとか、いろいろ批判もあるようだ。しかし、以上にあげた局面での彼の判断や行動は、見事というほかない。闘うときは勇敢に賢く闘い、しかし大局を見て大胆な譲歩を辞さない。こういう人は日本にいるだろうか。

 かつてはいた。日露戦争でもっとも重要な軍指導者だった児玉源太郎は、最も熱心な和平論者だった。宇垣一成も、1930年代後半には陸軍の巨大な軍拡や膨張には反対で、それゆえに首相になれなかった。海軍にも、外交上の優れた知見を持つ人物はいたが、彼らはいずれもメインストリームになれなかった。そして世論は空虚な宣伝を受け入れて、軍事的拡張路線を支持してしまった。

 現在はどうだろうか。フィンランドのような思慮深い外交が、日本に存在するだろうか。日本にマンネルヘイムはいるだろうか。

 もちろん、日本とフィンランドとの間には、大きな違いがある。

 日本の人口はフィンランドの23倍の1億2600万人であり、ロシアの1億5000万に対し遜色はない。経済力でははるかにロシアを上回る。中国と比べると、人口は10分の1、経済力は40%くらいであるが、海で隔てられているという利点がある。しかもアメリカという同盟国を持っている。

 それでも、ロシアは依然として危険な軍事大国であり、中国は急速に軍事大国化を進めており、遠からずアメリカに追いつく勢いである。さらに北朝鮮の核武装という事実もある。フィンランドに比べると、日本の外交安全保障政策は、あまりに能天気ではないだろうか。マンネルヘイムが一方的な大国への依存を戒めているのは、日米関係についても重要である。そして日本は、世界の平和や国連平和活動に対して、フィンランド以上に貢献するべきだろう。

【参考文献】
武田龍夫『嵐の中の北欧』(中公文庫、1985年)
百瀬宏・石野裕子編著『フィンランドを知るための44章』(明石書店、2008年)
石野裕子『物語 フィンランドの歴史』(中公新書、2017年)

デイリー新潮編集部

関連記事(外部サイト)