プーチンはいつどこで狂った? インタビューから読み解く「少年時代のコンプレックス」

 戦争犯罪? なんと生ぬるい言葉だろう。我々が今目撃しているのは、ナチス・ドイツがユダヤ人に対して行ったのと同等の、非人間的な殺りく行為である。主導しているのは、ロシア連邦大統領、ウラジーミル・プーチン。彼はいかなる道をたどり、「暴君」となりしか。

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〈じつのところ、私はとても単純な人生を送ってきた。すべてが明瞭だ〉

 プーチンが大統領に就任した2000年に出版されたインタビュー本『プーチン、自らを語る』(扶桑社)の扉にはそんな言葉が記されている。

〈学校を出て、大学に進んだ。大学を卒業すると、KGBに入った。KGBから大学に戻った。それから、サプチャクのスタッフとなった。サプチャクのもとを離れて、モスクワに移り、大統領府総務局に勤めた。それから、大統領府副長官となり、連邦保安局(FSB)長官となり、首相に指名された。そして、今は大統領代行を務めている。これだけだよ〉

 その“単純な人生”の続きをごく簡単に記すとすると、次のようになるだろうか。大統領就任後は着々と独裁体制を固めた。そして、その帰結として「ウクライナ人大量虐殺」を引き起こした――。

■「戦争前から住民の殺害、埋葬が決まっていた可能性が高い」


 ロシアによるウクライナ侵攻から2カ月余り。民間人をも躊躇なくターゲットにするロシア軍の殺りく行為はとどまるところを知らず、南東部マリウポリ近郊では、数千人の遺体を埋めることができる集団墓地らしき穴が見つかったという。戦慄するほかない事態が日々、ウクライナの地で繰り広げられている。

「首都キーウ近郊のブチャだけではなく、マリウポリの近くでも集団墓地が見つかったということは、やはり戦争を始める前から住民を殺害して埋葬することが決まっていた可能性が高いと思います」

 そう語るのは、『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)の著者で現代史家の大木毅氏である。

「遺体の処理をぞんざいに済ませると伝染病などのリスクがあるため、戦場における遺体処理は非常に重要です。報道されている状況をもとに考えると、遺体を埋葬するための特殊資材を最初から準備して行ったとしか思えません」

 プーチンはウクライナ侵攻の理由として「ナチ化を防ぐ」ためだと主張したが、

「彼は住民もひとしなみにナチだと考えているようです。つまり、ナチであるウクライナ人は殺しても構わない、むしろ殺すべきだという発想のもとに、前々からウクライナ人の殺害計画を立てていたと考えざるを得ないのです」(同)

■風呂なしの共同アパートで生活


 なぜ彼は、“明瞭”とは言い難い暗い妄執にとらわれるに至ったのか。

 歴史に汚名を刻むことになったプーチンは1952年10月、レニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれている。両親は第2次世界大戦がはじまる前に結婚。もうけた2人の子供は幼くして死んだという。戦争が始まると前線に送られたプーチンの父親は、ドイツ軍との戦いで重傷を負い、片足が不自由に。プーチンが生まれたのは戦後、父親が鉄道車両工場で働いていた頃だった。

 当時、プーチン一家が暮らしていたのはほとんど何の設備もないような共同アパート。お湯は出ず、風呂もない。トイレから漏れた水は階段の踊り場にピチャビチャとたれていた。先に触れたインタビュー本『自らを語る』では、アパートの中庭でよく遊んでいた頃の自分について、〈けんか早いところ〉がある〈問題児〉だったと振り返っている。しかし10歳を過ぎて柔道を習うようになってからは優等生に変貌し、将来の夢を〈スパイ〉と定める。きっかけは「盾と剣」のようなスパイ映画に心を動かされたことだった。


■強いコンプレックス


 プーチンは9年生(日本では中学3年に相当)の頃、KGBの支部を訪ねている。

〈「ここで働きたいんです」と私は言った。「それはすばらしい。だが、いくつか問題があるな」と彼は言った。「まず、志願してきた者は採用しない。次に軍の出身か大学の卒業生しか入れないんだ」〉(『自らを語る』より)

 猛勉強の末、レニングラード大の法学部に進んだプーチンは大学時代を通じてKGBからの接触を待った。ついに勧誘を受けたのは大学入学の4年後。ようやく念願の職場で働く権利を得たのだった。

『自らを語る』は複数のジャーナリストのインタビューによって構成されている。『プーチンの実像』(朝日文庫)によると、そのうちの一人、ゲボルクヤン氏は後にこう語ったという。

〈彼がKGBに行ったエピソードについても、私はなんのロマンも感じなかった。ソ連で最も強くて、最も恐ろしくて、最も力がある組織に帰属したいと考えたのだろう。これも、彼の子供時代と関係があるように私には感じられた。彼の話からは、強いコンプレックスと、その結果としての、負けることだけは我慢がならないという強い思いが伝わってきた〉


■大出世の「裏」


 75年にKGBに入ったプーチンはレニングラード支部で勤務した後、85年から90年まで旧東ドイツ、ドレスデンのKGB支部に駐在した。レニングラード支部時代に国内線のスチュワーデスをしていたリュドミーラと知り合い、結婚。2人の娘をもうけた。

 ドレスデン時代にベルリンの壁崩壊に遭遇したプーチンは故郷に戻り、KGBからの出向としてレニングラード大に勤務。その傍ら、改革派だったサンクトペテルブルクのサプチャク市長の政治活動を手伝うようになる。91年、後のソヴィエト連邦崩壊につながるクーデター未遂事件を機にKGBを退職している。

 94年からはサンクトペテルブルク市の副市長を務めたが、“ボス”であるサプチャク市長が96年の選挙で敗北すると、プーチンも辞職。その後、モスクワの大統領府で働き始めた彼は異例の大出世を遂げる。何しろ、モスクワに来た2年後の98年にはKGBの後身機関である連邦保安局長官に任ぜられ、翌年には首相に就任するのだ。エリツィン大統領はプーチンを指名するまでに4度首相を交代させていた。

 映画監督のオリバー・ストーンがプーチンにインタビューを重ねたドキュメンタリー「オリバー・ストーン オン プーチン」(17年)では、

〈私はレニングラードからモスクワに出てきた。モスクワには強力な後ろ盾も知り合いもいなかったんだ。でも、1996年に出てきて2000年1月1日には大統領代行になった。なぜ私が選ばれたか分からない〉

 と語っているが、そこに「裏」はないのか。


■連続爆破事件を自作自演した疑惑


 拓殖大学海外事情研究所教授で元時事通信モスクワ支局長の名越健郎氏の話。

「プーチンが首相に就任した翌月、モスクワなど4カ所で集合住宅の連続爆破事件が発生し、約300人が死亡しました。プーチンはいち早くチェチェン共和国独立派のテロと断定し、地上部隊をチェチェンに派遣して国民の喝采を浴び、支持率も2%から70%に急上昇。しかし、この連続爆破事件は政府側の自作自演だったという疑惑が今もくすぶっています」

 こうした“功績”もあって大統領代行に任命されたプーチンは2000年3月の大統領選に当選し、47歳でロシア大統領となるのだ。以降、首相時代も含めて22年の長きにわたって権力の座を占め続けた男の来歴には、大きく分けて二つの“柱”がある。一つは独裁体制の構築、もう一つは西側諸国との「心理戦」だ。

「プーチンは大統領就任当初、2000年頃は西側と共同歩調を取った国家運営を考えていたはずです。しかし、人権問題やメディアへの弾圧などが浮上すると、欧米から圧力がかかる。プーチンからすれば、ハシゴを外された、という気持ちになったでしょう」

 そう話すのは、元産経新聞モスクワ支局長で大和大学教授の佐々木正明氏。

「03年にはプーチンに批判的だったオリガルヒ(新興財閥)の一人、ミハイル・ホドルコフスキーを投獄するなど、国内であっても敵はどんどん排除していこうという動きが目立つようになります。さらに04年には、ロシアと国境を接するバルト三国がNATOに加盟。プーチンの中で西側への疑念が高まっていったことは言うまでもありません」

 ロシアのテレビが明らかなプロパガンダばかり流すようになったのもこの頃からだが、04年には7割を超える得票率で再選。08年、メドベージェフ大統領就任に伴い、首相となった。この時期、すでに西側諸国との関係は抜き差しならないものになっていた。


■妄執にまで発展する主張


 ニューヨーク・タイムズ紙は3月27日、〈プーチンの作り方〉と題する記事で次のように書いている。

〈2008年2月、米国とその多くの同盟国は、セルビアからのコソボの独立を承認したが、ロシアはこの一方的な宣言を違法なものであると拒絶し、スラブの同胞に対する侮辱だととらえた。フランスも、ドイツと共に、ジョージアとウクライナの「(NATO)加盟のための行動計画」(MAP)に(NATOサミットが開かれたルーマニアの)ブカレストで反対した〉

 厄介なのは、アメリカがジョージアとウクライナの加盟に前向きだったことで、

〈プーチンはブカレストにやってきて、ライス(元米国国務長官)が言うところの“感情的なスピーチ”を行い、『ウクライナは人為的に作られた国であり、1700万人のロシア人がそこにはおり、キエフは全てのロシアの都市の母である』と述べた。これは後に妄執にまで発展する主張である〉


■ウクライナは「手違いで誕生した国」


 プーチンは大統領に返り咲いた12年の会見で、「政治的な影響を受けた人物」を聞かれ、ピョートル大帝と、女帝のエカテリーナ2世の名前を挙げている。

「プーチンは、帝政ロシアなどの歴史そのものより、自分の政治を正当化するため歴史を利用することに関心があるのです」(筑波学院大学の中村逸郎教授)

 先の名越氏は、

「帝政ロシアは18世紀、エカテリーナ2世の時代にトルコと何度か戦争をしてウクライナ東部やクリミアを領有しました」

 と、こう解説する。

「その辺の土地は気候が良く農業に適しているのでロシア人が入植した。しかし、ロシア革命後、レーニンがロシア領土の一部を分離してウクライナ共和国を作ったのだと、プーチンは主張しています。つまり、プーチンにとってウクライナという国はソ連指導部の手違いで誕生した国であり、あくまでもロシアの一部なのです」

 14年にウクライナ南部のクリミア半島を併合した背景には、そうした考えがあったのか。そして、その先に今回の侵攻があることは言うまでもない。

 ブチャでの虐殺が明らかになった頃、クレムリンの代弁者ともいえる新聞「RIAノーボスチ」に掲載された主張は、もはやグロテスクとすらいえるものだった。その記事は、

〈ウクライナ国家の“非ウクライナ化”を要求している。ウクライナ人はナチがユダヤ人、ロマ人、スラブ人など、東方出身の人々を称した“劣等人種”として描かれている。これは、まったくのファシズムである〉(ウクライナの主要ニュース媒体「The New Voice of Ukraine」の4月4日付の記事より)


■プーチンが語った自らの“定め”


 先に触れたオリバー・ストーン監督のドキュメンタリーには、次のようなやり取りが収められている。

監督〈3期目の大統領で暗殺計画は通算5回? カストロは50回ほど命を狙われたはずだ〉

プーチン〈カストロとその話をした。彼いわく生き延びてきた理由はこうだ。「自分で身の安全を守ってきたから」。だが私の場合は自分の仕事に専念し警護はプロに任せている。よくやってくれているよ〉

監督〈警護があなたの信頼に応えていると?〉

プーチン〈そうだ〉

監督〈暗殺の王道は大統領の警護の内部に入り込むことだ〉

プーチン〈承知だ。ロシアにはことわざがある。「絞首刑になる定めなら溺死しない」〉

監督〈あなたの定めは何です?〉

プーチン〈我々の運命は神のみぞ知る〉

監督〈安らかな死?〉

プーチン〈誰もがいずれは死を迎える。問題はかりそめの世で何を成し遂げたか。そして人生を謳歌したか〉

 彼がかりそめの世で何を成しているか。我々は今、それを目撃している。

「週刊新潮」2022年5月5・12日号 掲載

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