最強の女王・エリザベス2世が思わずクレームをつけた「ライバル女性」

エリザベス女王とサッチャーとの関係を考える際、両者の間には多くの共通点があることに気付く

 9月8日、英国のエリザベス女王が96歳で逝去した。立憲君主として、70年にわたり15人の首相を相手にしてきたが、その女王が唯一苦手にしていたとされるのが「鉄の女」の異名をとった英国初の女性首相マーガレット・サッチャーである。

 はたして、エリザベス女王とサッチャー首相の関係とはいかなるものであったのか。元在英国日本大使館公使で、現在は駐米大使を務める冨田浩司氏の著書『マーガレット・サッチャー―政治を変えた「鉄の女」―』(第28回山本七平賞受賞)より、一部を抜粋してお届けする。

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下層中流家庭に育ったサッチャーにとっては、女王を取り巻く世界は全く異質のものであった。写真はマーガレット・サッチャー(出典:Wikimedia Commons)

 サッチャーとエリザベス女王との関係を考える際、両者の間には多くの共通点があることに気付く。年齢的には、サッチャーの方が1歳年上ではあったが、ほぼ同世代であり、厳格な父親の下で義務に対する責任と確固たる価値観を植え付けられた点も共通する。さらに、長年にわたる公務の中で培われた判断力の確かさも、両者が共有する資質の一つである。

 と同時に、両者が生まれ育った環境とそれぞれの立場で目指す方向に大きな懸隔があったことは否定しがたい。

 下層中流家庭に育ったサッチャーにとっては、女王を取り巻く世界は全く異質のものであった。このため、彼女の王室に対する姿勢には複雑なものがある。

 すなわち、彼女は一方において王室の伝統に対して真摯な敬意を抱いており、その格式やマナーを守るため時には滑稽に思えるほど気を使っていた。例えば、カートシー(curtsy)と呼ばれる王族へのお辞儀の時、彼女が極端に深く膝を折ることについて、王室の中では冗談の種になっていた。他方において、彼女は狩猟や乗馬など王室のぜいたくで優雅なライフスタイルについては全く関心を有しておらず、こうした行事に時間を費やすことは時間の浪費であると考えていた節がある。

 毎年秋、女王は時の首相をスコットランドのバルモラル城での休暇に招待することを慣例としているが、サッチャー夫妻にとってこの休暇は苦行だったらしく、出発日には夜が明けるのも待ち遠しく、朝6時には出立したといわれる。また、毎週1回行う女王への奏上についても、実務主義者のサッチャーが優先順位の低い仕事とみなしたためか、他の公務の都合で日程の変更が相次ぎ、王室からクレームがつく結果となった。

 より根本的な次元では、サッチャーがイギリスの閉塞状況を打ち破るイコノクラスト(偶像破壊者)としての役目を自認する一方、女王はまさに現状(ステータス・クォー)の守護者としての役割を担っていたという対立の構図がある。現実には、サッチャーは国営企業や労働組合を敵に回したのと同じような形で、王室の権威に挑戦することはなかった。しかし、イギリス社会の変動における二人の立ち位置を示すこの構図は、両者の関係を巡る重要な脈絡となっている。

 さらに、サッチャーが国際舞台で目覚ましい活躍を続け、内外マスコミにおける認知度が高まると、イギリスの「顔」としての女王の役割が侵食されるのではないかとの議論が出てくることはやむを得ないところであった。サッチャー自身は外遊などで女王と同一行動をとる際には、服装から立ち位置に至るまで女王より目立つことがないよう細心の注意を払ったらしい。しかし、こうした比較が行われること自体が両者の緊張を高める方向に作用したことは否定しがたい。

 この関連で留意すべきは、サッチャー政権の間、さまざまな要因でイギリス国民の王室を見る目が厳しくなっていった点である。この時期になると、王族関係のスキャンダルに対するマスコミの姿勢は以前ほど抑制的ではなくなっていたし、経済情勢が悪化するにつれ、王室のぜいたくな暮らしぶりや税制上の優遇措置への庶民の不満は高まっていく。そうした中で、先に述べた比較論は一層デリケートなものとなる。

「愛されない覚悟」が世界を変えた――。英国初の女性首相サッチャーの功績は、経済再生と冷戦勝利だけではない。その真価は、国家と個人の関係を根本的に組み替えたことにある。彼女はなぜ閉塞感に包まれていた社会の変革に成功したのか。対メディア戦略・大統領型政治・選挙戦術……良くも悪くも21世紀の政治指導者の原型を創り出したリーダーシップに迫る 『マーガレット・サッチャー―政治を変えた「鉄の女」―』

 1988年12月、スコットランドのロッカビー上空でパンナム航空の旅客機が爆破テロに遭遇した際、サッチャーが直ちに現場を訪れ、犠牲者の遺族を慰問したのに対し、女王はこれを行わず、しかもその後催された慰霊祭にも王室の関係者が誰も出席しなかったため、王室はマスコミの厳しい批判にさらされた。例えば、大衆紙のサンは、「王族はどこだ」という見出しの下で、慰霊祭の当日、9人の王族が何をしていたか(実際、何人かはバカンスを楽しんでいた)を写真入りで詳しく報じたが、これなどは当時の国内の雰囲気をよく表している。

 サッチャーと女王の個人的な相性(ケミストリー)がどうだったかについては、信頼すべき情報は限られている。というのも、女王と首相の関係という極めてデリケートな話題だけに、頼れる情報は関係者による挿話的なものに限られるのであるが、何せ前述のような緊張関係を背景にしているだけに、面白おかしく脚色されたものや、何らかの意図をもって流されたものが少なくないと推察されるからである。特に、王室筋から出たと思われる挿話には、女王が下層中流階級出身のサッチャーのあか抜けない部分を馬鹿にしていたという類の話が多い。

 しかし、歴史的に見ると、女王と首相との関係は階級的なものよりは、人間的な相性に左右される度合いが高いように思われる。例えば、戦後の首相の中で、女王と最もウマが合ったのは、保守党ではなく、労働党の二人の首相ハロルド・ウィルソンとジム・キャラハンであったとされる。したがって、サッチャーと女王との関係についても階級的な観点のみで判断はできないのであるが、さまざまな証言を全体的に考えると、丁重ではあるが、ぎこちないものであったという評価が妥当であるように思える。

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 冨田氏の著書では、その後、エリザベス女王とサッチャー首相が、「ローデシア問題」や「南アフリカの人種隔離政策」などを巡って、鋭く対立する場面が描かれているが、最終的には「女王の粘り勝ち」で終わったと結論している。

※『マーガレット・サッチャー―政治を変えた「鉄の女」―』より一部抜粋・再構成。

デイリー新潮編集部

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