世界柔道選手権、イランが“イスラエルボイコット”を指示 激怒したIJF会長の決断は

 日本武道館で9月1日に閉幕した柔道の世界選手権。日本は男女それぞれ7階級の個人戦で合計のメダル15個(金4、銀6、銅5)。さらに五輪史上、東京五輪で初めて採用される男女混合の団体戦も接戦でフランスを破って優勝し、本家の面子を保った。ルール改正などで、かつてのように「有効」や「効果」などのポイントを取って「逃げ勝ち」することができず、一本勝ちが激増するなど、テレビ視聴者にもわかりやすくなった。


■コーチが消える


 だがそんな中、スポーツが国際政治と切り離せない現実を突きつける難しい事態が起きていた。大会4日目、8月28日の男子81キロ級。イランのモラエイ選手(27)は準々決勝まで勝ち上がった。しかし反対のゾーンではイスラエルのS・ムキ選手が同様に勝ち上がっていたため、準決勝で対戦する可能性が強まっていた。モラエイ選手は世界ランク1位、リオ五輪にも出たムキ選手が同2位と、ともに優勝候補だった。

 この前後から、イラン本国のほうからモラエイ選手に、「イスラエル選手との試合に出るな」という圧力があったという。事実、コーチはモラエイ選手を残してさっさと引き上げてしまった。モラエイ選手は準々決勝でカナダの選手に勝ったが、コーチ不在のまま、準決勝でベルギーの選手に敗れ3位決定戦に回ったが、敗れて5位だった。イスラエルのムキ選手は見事に優勝したが結局、2人の対戦はなかった。


■対戦拒否選手を表彰


 イランは国としてのイスラエルの存在自体を認めていない。かつて、アテネ五輪(2004年)で、イスラエル選手との対戦を拒否したイラン選手が、帰国後に国から表彰されたりしている。今回、モラエイ選手本人は強く出場したかった様子だったという。今回の経緯について朝日新聞が、この問題に関する国際柔道連盟(IJF)、M・ビゼール会長のインタビューをいち早く報じた。この日、この男子80キロ級クラスでは日本期待の若手藤原崇太郎(21 日本体育大学)が2回戦で早々に敗退し、同階級への取材陣の注目度が減った中、朝日新聞はよく追っていたといえる。各紙も後追いしていた。


■「難民チーム代表」へ


 ビゼール会長は、モラエイ選手がすでにドイツにいることを明かしたが、ドイツ行きが自らの判断かどうかは言明を避けた。モラエイ選手は準々決勝でカナダ選手に勝った後、コーチから携帯電話を渡され、家族から次の試合に出ないように頼まれたという。結局、敗戦には試合直前の精神的動揺もあったようだ。同会長はモラエイ選手に出場を求めたという。

 自身もルーマニア出身、1989年の革命によるチャウシェスク独裁政権の崩壊までの混乱でハンガリーに亡命、最終的にオーストリアに移住した難民だったというビゼール氏は、助けを求めてきたモラエイ選手に深い理解を示した。同時にイラン政府に対して強い怒りを感じていることを朝日記者のインタビューで明らかにしている。IJFはあらゆる国際競技団体に先駆けて、難民チームを認定して五輪への出場の門戸を開いている。今世界選手権でもIJF代表として「難民チーム」が団体戦に参加している。ビゼール会長は今後について、「モラエイ選手を難民選手団の一員として東京五輪に参加させたい。あらゆる支援をする」と意向を示した。

 大会最終日の9月1日、記者団に囲まれた山下泰裕全日本柔道連盟会長(JCO会長)は、「イランの選手には家族などに棄権するように圧力がかかっていたようでした。以前、エジプト選手がイスラエルの選手との握手を拒否したりすることもあった。日本人には考えにくいことですが、(握手すると)自国の家族までが危険になったりするそうです。政治や宗教の違いによる厳しい現実を見る思いです」などと話したが、記者の「今大会の主幹国として何か全柔連の声明を出さないのか」という質問には「全柔連では対応を決められない。IJFさんの方で決めるので…」と言葉を濁した。


■悪夢のミュンヘン五輪


 スポーツの世界でアラブ諸国を中心にイスラエルを拒否するのは「イスラエルボイコット」として知られる。多くの競技で様々なトラブルが起きているが、柔道では、2004年のアテネオリンピック男子66キロ級で、世界選手権を2連覇していたイランの選手がイスラエル選手との対戦が決まると故意に軽量失格して棄権したことがある。2016年リオデジャネイロ五輪では、柔道の男子100キロ超級でエジプト選手がイスラエル選手との握手を拒否した。

 さて、「国際政治とスポーツ」が最悪の形で出たのは、なんといっても1972年のミュンヘン五輪である。大会中、パレスチナ武装戦線のテログループ「黒い九月」がイスラエルチームの選手村を襲って人質に取るなどし、重量挙げの選手やレスリングのコーチなど11人を射殺。テログループと警官なども合わせて合計17人が死亡した。五輪史上最悪の惨劇は近年、映画にもなった。

 大会当時のA・ブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長は「中止すべきだ」の声を押し切って二日後から大会を続けた。高校生だった筆者はテレビで見た、メイン会場で犠牲者の追悼のためにミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団がベートーヴェンの「葬送行進曲」(英雄交響曲の第2楽章)を演奏していた光景を鮮明に覚えている。来たる東京五輪でそんな悲しい曲だけは絶対に聞きたくない。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年9月10日 掲載

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