吠える男「文田健一郎」が東京五輪へ 最強のライバルが決勝で伝授した秘策

 カザフスタンのヌルスルタンで9月22日まで開かれていたレスリングの世界選手権はリオデジャネイロ五輪金メダルの女子68キロ級、土性沙羅(24 東新住建)、昨年優勝の男子フリー65キロ級、乙黒拓斗(21 山梨学院大)が三位にも入れないなど日本勢が厳しかった。そんな中でも、世界選手権を3連覇した女子57キロ級の川井梨紗子と並んで気を吐いたのが、男子グレコローマンスタイルで優勝、東京五輪の代表に内定した「吠える男」文田健一郎(23 ミキハウス)だった。

 大会4日目に行われた決勝で、昨年の王者だったロシアの強豪、セルゲイ・エメリンと激突した文田。グラウンド(寝技)の攻防で0−5とリードされたが、まったく落ち着いた試合運びだった。得意の反り投げで4点取ったかと思うと、ローリングで逆転。その後は一方的に攻めて10−5で王者を沈めたのだ。勝利の瞬間、「ウオーッ」「ウオーッ」といつもの雄たけびをあげ、日の丸を掲げて場内を走った。表彰台に立ち、スタンドから「文田、かっこいいぞ」と声が飛ぶとにやりと笑ったが、隣のエメリンは連覇を逸してショックだったのだか文田のパフォーマンスが不快だったのか、終始暗い顔をしていた。

 文田は日本選手には珍しいほど感情を激しく表すタイプだ。相手が「チャレンジ」(審判のジャッジを不服としてセコンドがビデオ判定を求めること)を申し出て、問題の場面が会場スクリーンに大きく流される時も、マットをノッシノッシと歩き回りながら自分の胸を叩いて「俺が勝っているぞ」とばかりに審判や観客にアピールする。

 試合後の会見で文田は「気持ちいいです。背負っていたものが肩から降りた。思い切って試合ができた。なによりも心配してくれていた父親を安心させられて嬉しい」などと話した。

 グレコローマンスタイルはフリースタイルと違い、タックルなど腰から下への攻撃が反則で上半身の攻防のため、欧米人などに比べて腕力の劣る日本人には弱い種目だ。素人には同じように見えるが「フリーとグレコはラグビーとアメフトほど違う。豪快な投げなどグレコの魅力を極めたい」とする文田は、グレコで日本に34年ぶりにもたらした一昨年の優勝と合わせて、日本人として初めてグレコで2度頂点に立った選手にもなったのだ。「2017年は終着点のように感じたけど、今回は一つひとつ丁寧に優勝を目指すことができた。今回の方が達成感は大きい」と感想を述べた。

 反り投げなどダイナミックな投げ技が世界のレスラーに恐れられる文田。しかし一回戦などではあえてそれを封じて、グラウンドでローリングを見せたりしていたが、決勝では勝負所で投げ技を見せるなど、変幻自在なところも披露していた。「大会全体を見渡して組み立てられるようになったのは成長だと思う」とちょっぴり自画自賛した。

 文田にとって、エメリンは初めての相手。試合直前に対策を講じてくれたのが、この大会のグレコ63キロ級で一足先に優勝していた、日体大の2年先輩の太田忍(25 ALSOK)だった。太田はエメリンと戦った経験があった。アップ会場で「ここでクラッチを切れ」「ここは止まるな」などと太田忍は自らが相手になって「打倒エメリン」の秘策を伝授していたという。

 先輩、後輩とはいえこの二人、「国内で勝つ方が難しい」といわれるこの階級で、激しい代表争いをしてきたライバルだった。太田はリオ五輪のグレコ59キロ級で銀メダル、文田は2017年の世界選手権の同級で優勝するなど、ともに第一人者。国内では、何度も決勝で激突し、試合ごとに交代で勝利するような互角の星勘定が続いていた。


■よき先輩と純な後輩


 だが、昨年12月の全日本選手権と6月の体重別選手権で文田が先輩の太田に連覇して、世界選手権の切符を獲得していたのだ。文田に敗れた太田は63キロ級に変更してプレーオフを勝ち抜き世界選手権に望んでいた。決勝でロシア選手に快勝して優勝していた。しかし63キロ級は非五輪階級だ。文田の優勝を見届けた太田は、階級をさらに上げて67キロ級に変更して東京五輪を目指すことを明らかにした。

 6月の明治杯(選抜選手権)では太田を連破した時、文田はマット上で「東京五輪は俺がとる」と胸をたたいて叫んだ。一方、太田も後輩の文田が別の選手と戦っていた時、「負ければいいのにと思う」などと記者の前で「本音発言」することもあった。強気発言や派手な勝利ポーズで知られる二人。だが、今回の優勝で文田は、「忍先輩は『決勝に進んだら応援するからな』と言ってくれた。終わった時、日本選手のブースで忍先輩は黙って抱き締めてくれました。お礼が言いたかったけど何も言えなかった」と明かした。

 社会人になっても二人の練習場は日体大のマットだった。たった一枚の切符を争わなくてはならなかったため、練習場では目を合わさないようになったり、ぴりぴりした雰囲気も漂ったようだ。「なんでおんなじ世代になったんだ、とか(大田忍先輩が)いなければいいのにと思うこともあった。でもすごくいい距離でやれたんです」と文田。先輩との戦いを振り返っては「俺、涙もろいんだけど…ああだめだ。また涙が」と目を真っ赤にしていた。

 二人の対決は一応終止符を打った。猫好きで「猫レスラー」のあだ名を持つ文田は、猫で有名な海外の島に行きたいそうだが、とてもそんな時間もなさそうだ。一方、「今回の優勝は東京五輪にとっては意味はない。僕を含めて世界チャンピオン経験者が6人もいる67キロ級まで上げて、そこで勝てばものすごい価値がある。悩んでいる暇はない」と言い切る太田。激しく凌ぎあったよき先輩と純な後輩、それぞれがまっしぐらに東京五輪へ走る。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年9月29日 掲載

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