戦争捕虜となったポーランド人将校を虐殺したソ連と黙認した同盟国

第二次世界大戦終結後、ソ連はさまざまな国を属国として支配。多くの戦争犯罪、そして人権弾圧を行ってきたようですが、それをアメリカやイギリスが見逃していたとなると、学んできた近現代史との違いに驚くかもしれません。評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏による、近現代史認識のグローバルトレンドをとらえ、国際社会で通用するための新常識。

■ソ連による「戦争犯罪」と「人権弾圧」

第二次世界大戦終結後、ソ連はバルト三国をそのまま併合してしまいました。そのほかに、ハンガリーやチェコなどに対しても、軍事力を背景に共産党一党独裁政権を樹立させ、ソ連の属国として支配したのです。

ソ連の影響下に入った国々では、共産党による一党独裁体制が始まり、実に50年近く、共産党と秘密警察による人権弾圧に苦しめられてきました。

こうした戦勝国ソ連による「戦争犯罪」と、戦後の「人権弾圧」の実態を調査し、告発する戦争博物館を、1990年代以降、中・東欧諸国は次々と建て始めたのです。

▲ワルシャワ蜂起博物館 出典:nero / PIXTA

そこで、ロシア革命百年にあたる2017年と2019年に、ドイツ、チェコ、オーストリア、ポーランド、ハンガリー、バルト三国を回り、戦争博物館を視察しました。

大半は公的機関である、これらの戦争博物館を見て回って気づいたことは、第二次世界大戦史に関する日本人の歴史認識には、致命的な誤解、盲点があるということでした。

それは、第二次世界大戦において、ソ連は当初から「侵略国家」として非難されていた、という事実です。

1939年8月23日、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約秘密議定書〔モロトフ・リッベントロップ協定とも言う。以下「秘密議定書」と略〕を結びました。この「秘密議定書」では、ポーランドの西はドイツ領、東はソ連領にすることや、バルト三国やフィンランドなどをソ連の支配下に置くことが決められていました。

その「秘密議定書」に基づいてドイツは9月1日、ポーランド西部に侵攻(次いでソ連も9月17日にポーランド東部に侵攻)、それに反発した英仏による宣戦布告によって、第二次世界大戦は始まったのです。

つまり第二次世界大戦は、ナチス・ドイツとソ連による秘密協定と、両国によるポーランド侵略から始まったのです。

■ポーランド将校虐殺事件を黙認した連合国

このソ連によるポーランド侵略で起こった悲劇の一つが、カティンの森事件です。

1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻しました。ポーランドを分割・占領していたドイツとソ連が戦争を開始した結果、ドイツの敵となったソ連は、イギリスを始めとする連合国の「味方」になっていきます。

イギリスのチャーチルもアメリカのルーズヴェルトも、当面の敵はヒトラー率いるドイツだと考え、ソ連と連携しようとしたのです。

このような状況で微妙な立場に置かれたのが、ロンドンに置かれていたポーランド亡命政府でした。そして1943年4月13日、ベルリン放送がカティンで約4,000人のポーランド将校の死体を発見したと報じ、いわゆるカティンの森事件が発覚します。

ソ連側は「殺害はナチス・ドイツが行った」と声明するようにポーランド亡命政府に要求しました。しかし、ポーランド亡命政府のヴワディスワフ・シコルスキ首相はこれを拒否し、ジュネーブの国際赤十字に解決を委ねます。ソ連はこれに反発し、同年4月25日付で駐ソ・ポーランド大使に外交断絶を伝える書簡を手渡しました。

▲ドイツによって作成された、ソ連によってカティンの虐殺が行われたとするプロパガンダポスター(1943年9月7日) 出典:ウィキメディア・コモンズ

アメリカもイギリスも、カティンの森事件はソ連の犯行だと疑っていました。しかし両国はソ連との協力を優先させ、ポーランド亡命政府の意向は無視される結果となりました。

現在は、カティンの森事件はソ連の犯行だったことが明らかになっています。冷戦終結後の1990年、ソ連国営のタス通信は「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」と報じました。英米両国は戦時中、ソ連との関係を重視して、ソ連軍によるポーランド将校虐殺事件を黙認した、ということです。

■1万人以上のポーランド人将校が銃殺された

世界的に著名なポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダが製作した『カティンの森』(2007年公開)という作品があります。自分の父親がカティンの森でソ連兵によって殺された史実を基にした映画です。

私は、この映画を駐日ポーランド大使館での試写会で見ました。

岩波書店の国語辞典『広辞苑』には、《「カティン事件」→「第二次大戦中の1940年にソ連が捕虜としたポーランド軍将校をロシアのスモレンスク州カティンの森で大量殺害した事件。ソ連政府は90年公式に責任を認め謝罪。」》と記されていますが、こんな数行程度の記述では、事件の悲惨さと重大さは伝わらないでしょう。

▲カティンの森に建設された慰霊碑と、犠牲者の名前が記された銘板を使った歩道 出典:Бандурист(ウィキメディア・コモンズ)

ワルシャワ中心部の王宮広場の一角には、カティンの森の犠牲者慰霊碑が建立されています。ポーランドにとって実に大きな事件だったことがわかります。?

カティンの森で殺されたポーランド将校たちは、ソ連軍に正式に降伏し、収容所に入れられていた人たちでした。ゲリラ的な戦闘行為といった国際法違反は犯しておらず、戦時国際法によって身体の安全などは保護されるべきでした。戦時国際法では、捕虜の虐待や殺害は禁止されているのです。

ソ連からすれば、ポーランドは他の中欧諸国と異なって平坦地が多く、小麦などがたくさん収穫できるという戦略的な観点からも、どうしても支配下に置きたい地域でした。もともとポーランドの多くの地が、帝政ロシアの支配下にあったという歴史的経緯もあります。

ソ連のそうした思惑にとって邪魔なのは、いわゆる民族主義的な勢力を構成するポーランド人たちでした。カティンの森で殺害された高級将校たちは、そうした勢力を代表する人たちだったのです。

事件当時、ソ連内収容所には1万数千人のポーランド人将校が、戦争捕虜として抑留されていました。ソ連は、捕虜にした彼ら1万数千人を森の中に連れ込み、1人1人銃殺しました。許しがたい戦争犯罪です。

このカティンの森事件については、ソ連がその事実を認めるのは冷戦終結後の1990年、事件後半世紀を経てからのことでした。

▲赤軍に捕虜にされたポーランド軍将兵 出典:ウィキメディア・コモンズ

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。?

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