2013年の「ユーロマイダン」から激化したウクライナの内部分裂

EUとの協定締結を取りやめた当時のウクライナ、ヤヌコーヴィチ政権。それに対して抗議の声を上げる市民たち。当初は、声を上げ旗を掲げて行進する平和的なデモだった。しかし、ウクライナ政府がその対応に機動隊を投入したことで、デモは過激な活動へと発展していく。なぜ、ウクライナ情勢は沈静化しなかったのだろうか。ロシアの軍事研究の第一人者・小泉悠氏が一連の出来事を辿っていく。

※本記事は、2019年6月に刊行された小泉 悠:著『「帝国」ロシアの地政学??「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。

■EUとの連携撤回により抗議から過激デモへ

プーチン首相が2011年に提起したEEU(ユーラシア経済連合)は、旧ソ連諸国内の経済統合による経済発展という、ポジティブな性格を装いつつ(実際、そのような効果は見込まれていたとしても)、それらの国々がEUの経済圏に取り込まれるのを防ぐこと=経済面でロシアの消極的勢力圏に留め置くという、よりネガティブな性格も有していたことになる。

だが、EUとの連携協定によって西側の仲間入りを果たし、安定と発展を享受することに期待を抱いていた都市部のリベラル派は、ヤヌコーヴィチ政権の決定に深く失望し、街頭での抗議行動に出た。

EUとの連携協定が正式調印される筈であった2013年11月21日の夜、首都キーウ(キエフ)の独立広場(マイダン)には、SNSでの呼びかけに応じて集まった多数の市民が詰めかけ、連合協定締結の撤回に抗議の声を上げた。

広場に集まる市民の数は、24日までに10万から20万人まで膨れあがり、オレンジ革命以来、最大規模の抗議集会となった。ちなみにオレンジ革命の舞台となったのも、同じ独立広場である。2013年秋に始まったこの運動は、欧州への統合を求めるという意味で「ユーロマイダン」と呼ばれた。

▲ウクライナ親欧州派がキエフ独立広場で行った反政府デモ 出典:Nessa Gnatoush(ウィキメディア・コモンズ)

ただし、この段階における抗議行動は、あくまでも平和的なデモに過ぎなかった。人々はウクライナ国旗やEU旗を掲げたり、歌いながら行進する程度で、暴力的な傾向は見られなかった。

ここでEU旗が登場するのが面白いが、当時、グルジアやウクライナではEU加盟を目指す意思の表明として、EU旗があちこちに掲げられており、私がグルジアを訪問した際にもあちこちで目にしたものである(旧ソ連諸国におけるEU旗の象徴性について研究したマクギル大学のジョンソンらは、グルジアとモルドヴァでは、この旗が欧州としてのアイデンティティを示すと同時に、強い反露的メッセージを帯びていると指摘する)。

▲EU旗 出典:BreakingTheWalls / PIXTA

しかし、11月末、政府が内務省の機動隊を投入して、デモを強制的に解散させようとする過程で多数の負傷者が出ると、デモ隊も過激化する。その先頭にいたのが、ネオナチ集団「スヴァボーダ(自由)」や極右政党「右派セクター」の行動隊で、この頃から投石や火?瓶などによる暴力的な傾向が強まりだした。

2014年1月に入ると、抗議行動はさらに過激化し、デモ隊と鎮圧部隊との激しい攻防が行われるようになった。これに対してヤヌコーヴィチ政権は、21日にデモ規制法と呼ばれる12本の法律を施行し、「過激な行動」(その詳細は規定されていない)を禁止するほか、5台以上の車を所有する者が渋滞を引き起こした場合の罰則規定や、マスクで顔を隠すことの違法化、政府によるインターネット検閲などが規定された。

これに対して反発を強めた反政府側は、公的機関の建物を占拠したほか、19日から21日にかけてフルシェフスコホ通りなどで、鎮圧部隊と激しい攻防を繰り広げるようになり、情勢はさらに緊迫化する。

ヤヌコーヴィチ政権は、野党「祖国」のヤツェニューク党首を首相、「ウダール」のクリチコ党首を副首相として、野党側に新内閣を組織する案を打診するなどして懐柔に努めたが、野党側はこれを拒否し、情勢はますます収拾がつかなくなっていった。この頃から、多数の死者も出るようになっていく。

■ヤヌコーヴィチが逃亡、一夜のうちに政権崩壊

その推移をいちいち示すことはしないが、2月半ばに入るとヤヌコーヴィチ大統領は、拘束されていた反政府活動家の恩赦を認め、18日にはクリチコ氏との会談にも応じたが、結局は物別れに終わった。この間にもマイダンを中心とする攻防は続き、死者は増え続けていった結果、21日になってヤヌコーヴィチ大統領は、野党およびEUの代表とのあいだで危機解決に向けた合意案に調印せざるを得なくなった。

主な内容は次のとおりである。

挙国一致内閣を設立すること 2015年の大統領選を2014年12月に前倒しして実施すること 議会の強い権限を認めた2004年憲法へ回帰すること 与野党・欧州評議会監視の下で暴力行為の責任者の捜査を行うこと 政府・反政府双方が暴力を停止すること 違法な武器所持を停止すること 占拠した建物・道路を解放すること 「恩赦法」を制定すること 

これにより、11月から続いてきたウクライナの危機は収拾するかに見えた。

だが、納得しなかったのは前述の「右派セクター」をはじめとする極右勢力である。彼らはヤヌコーヴィチ大統領の即時辞任や、大統領選挙のさらなる繰り上げ実施、内務省幹部の処罰などを要求し、武装闘争を再開した。この結果、反体制派は議会や大統領官邸の占拠などに出るが、警官隊は21日の協定に従ってこれを制止しようとはしなかった。 

22日には、ヤヌコーヴィチ大統領の解任が議会で決議されたが(ただし、憲法上、議会には大統領の解任権限は本来ない)、このあいだに、当人はウクライナ東部のハルキウ(ハリコフ)からクリミア半島経由でロシアへ逃れていた。

▲ウクライナの旗を持つ人々 出典:Vapi / PIXTA

いずれにしても、ヤヌコーヴィチ政権は一夜のうちに崩壊したのである。キエフを脱出したヤヌコーヴィチ大統領が、クリミア半島で息を潜めている頃、同じ黒海沿岸にあるロシアの都市ソチでは、冬季オリンピックが閉幕を迎えようとしており、ロシアをめぐる雰囲気は総じて祝祭的であった。当時、私自身もロシアが軍事介入に踏み切るとは全く予測していなかった。

しかし、その空気は一夜のうちに裏切られたのだった。

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