日本が独立国でなくなる…マッカーサーを説得した3つの理由

近年の機密文書公開により、われわれが学校で教わってきた近現代史は「時代遅れ」となっています。「日本は侵略戦争をする悪い国だから、日本を弱くしたほうがいい」という〈弱い日本派〉の立場に立つのか、それとも「日本が強くなったほうが、アジアの平和と繁栄を守れる」とする〈強い日本派〉の立場に立つのか、そろそろ選択をしなければなりません。そのためには、第二次世界大戦でのポツダム宣言受諾から朝鮮戦争までの流れをおさらいする必要があると、評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏は指摘します。

■外務大臣・重光葵の奮闘

▲重光葵 出典:ウィキメディア・コモンズ

1945年8月14日の23時、日本は中立国のスイス・スウェーデン経由で、連合国側にポツダム宣言の受諾を通告しました。

ところが「降伏文書」調印直後、ポツダム宣言および降伏文書に関して大きな問題が持ち上がりました。アメリカ側には、あくまでも「日本政府の無条件降伏」にこだわる動きがあり、それが表面化したのです。

9月2日、ミズーリ号上で調印が行われた日のその夜のこと、外務省の鈴木九万(ただかつ)公使が横浜に置かれた総司令部に呼ばれ、翌3日の午前10時にマッカーサーが日本国民に対して、統治に関する布告を行う予定であることが知らされました。

▲降伏文書の重光の署名 出典:ウィキメディア・コモンズ

占領軍は日本全土を占領して軍政を布き、米軍の軍事裁判所が日本国内の裁判権を行使し、総司令部は日本において軍票を行使する、というのです。軍票とは、占領軍が発行する代用紙幣です。マッカーサー司令部は、無条件降伏をしたドイツと同じように日本を扱おうとしました。司法権と通貨を奪われれば、日本は名実ともに独立国ではなくなります。

鈴木の報告を受けて、外務省の岡崎勝男が直ちに連合軍司令部に駆けつけ、すでに就寝していた参謀長を起こして談判し、翌朝の布告をとりあえず差し止めます。そして、3日、重光葵が朝一番に約束を取り付け、マッカーサーと面会するために司令部に乗り込みました。重光は3つの理由を挙げて、軍政を布かないようにマッカーサーを説得します。

第一の理由は、皇室と国民の絆こそがポツダム宣言を遂行するうえで不可欠である、ということです。マッカーサーは、停戦が無血で済んだことを戦史上空前として高く評価していました。重光はそれを逆手に取り、天皇陛下の意向でできた皇族内閣を否定する軍政に踏み切れば、ポツダム宣言は円滑に実行できない、と脅したのです。

第二の理由は国際法でした。占領軍が軍政を布いて直接に行政実行の責任を取ることは、ポツダム宣言以上のことを要求するものであり国際法に違反する、と批判しました。日本政府は占領政策を遂行するつもりだが、軍政を布くならば日本政府としては責任を負えなくなるぞ、としたのです。

第三に、重光は、日本政府はすでにマッカーサー最高司令官の指令を着実に遂行しつつあることを伝えました。日本政府にはポツダム宣言を自らが遂行する能力があることを主張したのです。前掲書で重光は、次のように述べています。

特に、天皇陛下のポツダム宣言実行の御決意を力説し、また平和的御意図については、満洲事変前にもさかのぼって、事を分けて説明した。総司令官は、理解と興味とをもってこれを聴取し、遂に軍政の施行を中止することを承諾し、その場において、直ちに必要の措置をとることをサザランド参謀長に命じ、参謀長はその場から電話をもって総司令官の命令伝達の措置をとった。[『昭和の動乱』下 重光葵 中央公論社/1952年]

国際法を熟知した重光らの奮闘で、日本は間接統治を守ることができたのです。それは、米軍の軍人たちが直接、日本を統治することを避けることができた、という意味です。

仮に軍政、つまり直接統治になっていたら、日本の事情をよく知らない、というか、日本を「軍国主義」だと誤解していた米軍の軍人たちが政府、官僚組織に乗り込んで、権力を笠にきて、あれこれと無茶苦茶な命令を乱発していたに違いありません。そうなれば、日本政府は大混乱に陥り、場合によっては、米軍への反感から争乱が頻発し、戦後の復興も危うくなっていたでしょう。

国際的な交渉において政治家、外交官が国際法を使いこなすことができるかどうかが、国家の命運を左右するのです。

■トルーマン政権下で〈弱い日本派〉が台頭

日本が敗戦を迎えた1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送に先立つ数日のあいだに、トルーマン民主党政権下の国務省では、次々と〈強い日本派〉が要職を外されるという事態が生じていました。

〈強い日本派〉とは、「アジアでの紛争は、ソ連が引き起こしているからであり、ソ連の防波堤として日本の行動を理解すべきである」と分析していた勢力です。

▲極東国際軍事裁判 出典:ウィキメディア・コモンズ

相手国を支配しようとする場合、まっさきに軍隊と警察が抑えられ、次いで放送局を含むマスコミへの言論統制が始まります。これは相手を占領したときの常とう手段です。

10月10日には、日本共産党の幹部である徳田球一、志賀義雄らを釈放します。人権指令を起草し、共産党の幹部を釈放させたのは、カナダ外務省から出向してきていた、GHQ対敵諜報部調査分析課長ハーバート・ノーマンでした。ノーマンとは、アメリカ上院司法委員会で共産党員ではないかと追及され、1957年に自殺した人物です。

人権指令は約3000人の政治犯を釈放しました。言ってしまえば、共産主義革命の担い手が日本社会に解き放たれたのです。共産党や革命勢力を取り締まる治安維持法も廃止されました。

10月下旬には、「日本教育制度に関する覚書」を公布して、いわゆる「軍国主義者」の教職追放を宣言し、「信教の自由に関する覚書」を公布し、「教職員の調査、精選および資格決定に関する覚書」を公布しました。学校現場から、占領政策に批判的な教職員を追放し、代わって、占領政策、つまり米軍に迎合する教職員を採用するようにしたのです。

11月に入って、陸軍省・海軍省も廃止され、軍事機密を守るための、いわゆるスパイ防止法なども廃止されます。

12月には、神道指令の名で知られる「国家神道に対する政府の保証・支援・保全・監督および弘布の廃止に関する覚書」が指示されました。さらに12月31日、「修身・日本史および地理の授業停止と教科書回収に関する覚書」が提示されました。

日本から独立国家としての能力を奪い、日本を徹底的に弱くすることがアジアの平和を守ることだとする〈弱い日本派〉の政策が、敗戦後の日本に押し付けられたわけです。

▲東京駅にあった連合軍専用出入口 出典:河出書房新社「アメリカ軍が撮影した占領下の日本」(ウィキメディア・コモンズ)

■朝鮮戦争が転機となり「強い日本」政策へ

この対日政策が転換した契機となったのは、1949年の中国共産党政権の樹立と、その翌年に起こった朝鮮戦争でした。

朝鮮戦争の勃発は、「日本で武器・弾薬の生産をしなければ、アメリカは朝鮮半島で戦えない」という現実を明らかにしました。アメリカは「弱い日本」政策から「強い日本」政策へと転換します。

1946年1月4日に行われた、連合国最高司令部覚書に基づく公職追放は、軍人や保守派の人たちが「軍国主義者」、あるいは「右翼」として追放されたものでした。

ところが朝鮮半島の情勢が緊迫するなか、1950年6月には幹部をはじめとする日本共産党の関係者が追放されました。そして朝鮮戦争勃発後の8月、マッカーサー司令官の命令で警察予備隊が組織されます。国家地方警察と自治体警察の警察力を補うものとして設けられた武装組織です。警察予備隊は1952年10月、現在の陸上自衛隊にあたる保安隊に改組されます。

▲警察予備隊総隊総監部 出典:ウィキメディア・コモンズ

日本は「侵略戦争をした悪い国」だから、再び武装することを禁じると、現行憲法で規定されました。その背景には、「強い日本がアジアに混乱を巻き起こす」ので、日本は弱いほうがいいとする〈弱い日本派〉の考え方がありました。

ところが、現行憲法制定からわずか4年も経たないうちに、中華人民共和国(中国共産党政権)の樹立と朝鮮戦争の勃発を受けて、「弱い日本のままだと、アジアの平和と安定を守ることはできない」、言い換えれば「強い日本がアジアに安定をもたらす」という〈強い日本派〉の考え方に立脚するようになり、日本に対して再軍備を命じたわけです。要は国際社会の状況次第で、アメリカの対日政策はころころと変わるわけです。

その後もアメリカは、基本的には旧ソ連や中国共産党政権、そして北朝鮮の軍拡に対抗して、日本に対して軍事力の増強を求めてきましたが、日本はどちらかというと、立場をはっきりさせず、選択をすることを避けてきたと言わざるを得ません。

しかし、そろそろ「日本は侵略戦争をする悪い国だから、日本を弱くしたほうがいい」という〈弱い日本派〉の立場に立つのか、それとも「日本が強くなったほうが、アジアの平和と繁栄を守れる」とする〈強い日本派〉の立場に立つのか、選択をしなければなりません。

日本人自身が「日本は侵略戦争をする悪い国だから、日本を弱くしたほうがいい」という〈弱い日本派〉の立場に立つならば、国際社会も当然のことながら、日本が活躍することを望まないでしょう。実際に〈弱い日本派〉の立場に立つ中国や韓国は、ことあるたびに日本を非難し、日本の地位と名誉を損なう動きをしてきます。

一方、「強い日本がアジアに安定と平和をもたらす」と考える〈強い日本派〉の立場に立つならば、日本は積極的に国際社会に出て活躍すべきですし、第二次安倍政権などは「自由で開かれたインド太平洋構想」を掲げて、アメリカ・インド・オーストラリアなどとの関係を強化しつつありました。そして「頼りになる日本」となれば、友好国は過去の日本について、あれこれと言わなくなるものです。

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。

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