失脚覚悟の決断! ユダヤ難民2万人を受け入れ続けた樋口季一郎

2万人ものユダヤ難民を満州国に受け入れた樋口季一郎。「世界で最も公正な人物の一人」とまで称された樋口だったが、ユダヤ人を受け入れる決断には、陸軍内での地位を失うことへの覚悟が必要だった。産経新聞論説委員の岡部伸氏が、樋口本人や家族の記憶から、樋口がユダヤ難民救出を成功させるまでの勇敢な行動について語ります。

※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

■満州国の“内面指導”としての救援活動

1938年当時の満州国は本来、独立国であり、関東軍特務機関長の樋口季一郎中将には、ビザ発給決定への直接の権限はありませんでした。

▲満洲国皇帝・溥儀 出典:ウィキメディア・コモンズ

ただし、当時の関東軍は、満州国の施政全般への一般的な指導権を持っていました。そのため、樋口中将は特務機関長として「満州国の内面指導」という形式で、ビザの発給に関与することができたのです。

「満州国は独立国家である。何も関東軍に気兼ねすることはない。ましてドイツに遠慮は無用である。一緒になってユダヤ人を排撃する必要は毛頭ない。ことは人道問題である。国境の寒さは厳しい。一日延ばせば難民の生命が重大問題となる。一刻も早く入国を決断していただきたい」(木内是壽著『ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝』アジア文化社/2014年)

満州国外交部参事官でハルビン駐在だった下村信貞は、東京帝国大学卒業の若手外交官で、樋口とは面識がありました。のちにソ連軍に大敗したノモンハン事件〔1939年にモンゴル・満州の国境付近で起こった日本軍とソ連軍の大規模な軍事衝突〕の収束に尽力し、終戦時には満州国外交部次長を務めた人物です(戦後シベリアに抑留されて客死)。

下村は「人道上の問題」と事態改善を求める樋口中将の要請を受け入れ、外交上の手続きを始めました。極東ユダヤ人協会会長のカウフマン博士にも、食料や衣服の手配など難民受け入れの準備を進めるように伝えました。

また、樋口中将と陸軍士官学校同期の盟友で、大連特務機関長だった安江仙弘(のりひろ)中佐も、ユダヤ人協会や南満州鉄道(満鉄)などと実務的な折衝を進めました。安江は、陸軍きってのユダヤ問題の専門家で、のちに大佐となります。

▲安江仙弘 出典:ウィキメディア・コモンズ

■樋口親子が語る事件当時の記憶

当時の様子を樋口中将は、1954年に執筆した『北方情報業務に関する回想』で、次のように書いています。

「一万内外のユダヤ人がオトポール駅に逃れ来たり、入満を希望した。もちろん彼らはパスポートも所持していない。完全なる難民である。満州国は正道の外交権にもとづき、彼らの入満を許可しない。彼らは旅費と食料の窮しつつある。在ハルビン・ユダヤ人の代表者(カフマン博士)は、満州国外交代表某(下村信貞)にたいし、根気よく斡旋を依頼した。

彼は一夕私を訪ね来たり、いかにすべきやと問う。私は『ポーランドでもソ連でも、すくなくとも彼らの国内通過を認めたではないか。せめて蘇波(ソ連とポーランド)並みの態度をとるべきである。特に満州国の国是は五族協和である。五族とは万族ということである。よろしくそれを希望するものは満州に留まることを許容すべきである』と答えた。

彼曰く、『ところが目下、日独の関係はきわめて親密であり、防共に関する交渉も進められている。この際ドイツの追放せるものを厚遇するようなことは満州国として遅疑(ぐずぐずためらうこと)せざるをえない』と。

私いわく『満州国は日本と不可分の関係にあるが、やはり独立国だ。現在満州国代表がベルリンにいるではないか。日本とドイツは極度に親善だが、やはり日本はドイツの属国ではない。ドイツの悪ないし非の行動に同調すべきではない』と論じたところ、彼これを諒とし、満州国の決心として、彼らの通過に多大の便益を与えたものであった。これは私の内面指導のもっとも成功せるものであった」(カッコ内は筆者加筆)

ただし、樋口中将のユダヤ難民救済は、陸軍内での失脚を覚悟しての決断でもありました。

早坂隆著『大東亜戦争の事件簿』(扶桑社)によると、樋口の四女である智恵子は、当時まだ4歳でしたが、こんな記憶を有していたそうです。

「母が『お父様がクビになる。日本に帰ることになるかもしれない』などと口にしながら、荷物を整理していた姿を覚えています。今から思えば、その頃がユダヤ難民の事件が起きていた時だったのかもしれません(中略)。私が救出劇のことを知ったのは、戦後ずっと経ってからのことです」

■「A級戦犯」松岡洋右も難民救済に協力していた

次に樋口中将は、南満州鉄道株式会社(満鉄)の松岡洋右総裁に電話し、満州国や上海へ難民を輸送する特別列車を仕立てるよう要請しました。

▲松岡洋右 出典:国立国会図書館(ウィキメディア・コモンズ)

松岡はこれを二つ返事で了解し、難民救出のため、緊急に特別列車の満州国への入国と出動を命じました。満鉄は、対ソ戦に備えて常時数万の兵士を移動できる体制を整えていたのです。

「ハルビン〜満州里」間は900キロもあり、1週間に客車と貨物車がそれぞれ1便ずつしか運行していませんでしたが、特別に満鉄が運賃無料で運行しました。

配車の交渉や本省への連絡は下村が行いました。そして満州国外交部は、無条件で難民たちに、とりあえず5日間の満州国滞在ビザを発給しました。

松岡洋右は、満州事変後の1932年にジュネーブで行われた国際連盟総会で、国連を脱退する演説を行い、1940年から近衛内閣の外相を務めて、日独伊三国同盟締結を主導した人物として知られています。

戦後には、連合国最高司令官総司令部(GHQ)による東京裁判でA級戦犯とされました。その「A級戦犯」も、樋口中将が要請したユダヤ人難民救出という“人道的支援”に協力していたのです。

▲国際連盟脱退翌日の東京朝日新聞(昭和8年2月25日朝刊) 出典:ウィキメディア・コモンズ

ちなみに、松岡は1939年10月、ヘブライ語学者の小辻節三を満鉄の顧問として招聘(しょうへい)しています。小辻は、のちに杉原千畝氏が発行する「命のビザ」で、日本に入国したユダヤ難民たちの滞在期間延長に尽力した人物です。

ベン・アミー・シロニー、河合一充著『日本とユダヤ その友好の歴史』(ミルトス/2007年)によると、かつてはファシズム的な論調を展開し、親ナチスと思われていた松岡に対して、小辻が見解を尋ねたところ、「私は(ナチ党の)反共の協定は支持するが、反ユダヤ主義には賛成しない。この二つはまったく異なる。この点を日本は明確にしなければいけない」と答えたそうです。

■樋口中将は「世界で最も公正な人物の一人」

1938年3月12日の夕方、ハルビン駅に満州里からの特別列車が到着しました。列車からは、死の恐怖から解放され、疲れ切った難民たちが次々と降りて来ました。

▲大連・南満洲鉄道株式会社本社 出典:ウィキメディア・コモンズ

カウフマン博士はじめユダヤ人協会の幹部や医師が救護班に指示して、温かな飲み物や衣料を提供すると、多くの難民の涙がこぼれました。病人や凍傷患者は病院で手当てを受け、他の難民たちは全員、商工クラブや学校などに収容され、炊き出しを受けました。

その後、救出された難民の約8割は、上海を経由して米国などに渡りました。残りの人たちは開拓農民として満州国に残り、ハルビン周辺に入植することになりました。樋口中将は、安江大佐に依頼して、彼ら入植者のために土地や住居の斡旋など、最大限の支援を最後まで行いました。

この光景を目撃したカウフマン博士の息子、テオドル・カウフマンは、2006年にイスラエルで出版した『わが心に生きるハルビンのユダヤ人たち』で、「樋口将軍は、ハルビン・ユダヤ協会の嘆願を受け入れ、難民たちが満州国に入国できるように仲裁を行ってくれた。世界で最も公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考えている」と記しています。

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