長期化するほど厳しくなる北方領土返還交渉の現実

ロシア外務省は5月4日に、ウクライナ侵攻への制裁を実行している日本への対抗措置として、岸田文雄首相を含む入国禁止の対象者リストを発表したが、そのなかには北方領土問題に関わる人たちが多数含まれていた。長期戦となっている北方領土問題。時間の経過とともに、日本の交渉が満足に通る可能性はどんどん低くなるという。今後の北方領土問題はどのような展開を見せるのだろうか? ロシアの軍事研究の第一人者・小泉悠氏が、北方領土問題について解説します。

※本記事は、2019年6月に刊行された小泉 悠:著『「帝国」ロシアの地政学——「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。

■ロシアは短期解決を視野に入れていない

北方領土の軍事的価値は、ロシアの対日交渉においてリアルな安全保障問題であると同時に、交渉上の便利なレバレッジとしても用いられていると考えられる。

▲国後島を背にして群れるミズナギドリの大群 出典:Nereid / PIXTA

では、ロシアは今後の日露交渉においてどのように出てくるだろうか。

第一に、日ソ共同宣言でいう「引き渡し」には主権が含まれていないという主張を、ロシアは今後も押し通してくる可能性が高い。この場合、日本には北方領土やその周辺における施政権だけを認め、主権はロシアが保持するという落としどころを提示してくるだろう。

たとえば歯舞・色丹に日本人が渡航したり、島内および周辺海域で経済活動(現状では大きな制約を受けている漁業など)を行ったりすることは認めるが、そこではロシア法が適用され、日米安保条約の対象とすることは認めない、といったことが考えられる。

第二に、「引き渡し」が時間をかけて、段階的に行われる可能性もある。「経済協力だけを引き出されて島が帰ってこないのではないか」という「食い逃げ」警戒論が日本にあるように、ロシア側では「島を渡せば経済協力を反故(ほご)にされるのではないか」という逆「食い逃げ」警戒論が存在する。

したがって、問題の解決になるべく時間をかけることで、日本からより多くの見返りを期待できるということに(ロシア側の論理では)なる。

しかも、北方領土をロシア側が支配している以上、時間はロシアの味方である。時間の経過に従って北方領土のロシア化は今後も進行し、島の返還を待ち望む元島民は、寿命によって減少していく。かつて約1万7000人を数えた元島民の数は、現在までに5500人を下回っており、存命の元島民も平均年齢が86歳に達している。

ちなみに厚生労働省の発表によれば、2020年の日本人の平均寿命は男性で81.6歳、女性でも87.7歳。あと数年もすれば、日本政府は元島民がほとんどいない状態で北方領土交渉を闘わねばならなくなる。ロシア側の狙いは、まさにこのような状況が訪れるまで粘ることであろう。

言い換えるならば、ロシアは最初から北方領土問題の短期解決を視野に入れていない可能性が高い。プーチン大統領が過去に、北方領土問題に期限を設けることは「有害でさえある」と述べたことは、そうした姿勢を示す一つの好例と言えよう。

▲根室市北方領土資料館 出典:bashibassy84 / PIXTA

■嚙み合わないのは日露の視点の違い

一方、純軍事的な観点においては、返還後の北方領土に日米側のなんらかの兵力配備制限を設けることや、査察や通告といった信頼醸成措置を実施することは一定の有効性を持つであろうし、実務上も不可能ではないと思われる。また、こうした措置はロシアが交渉戦術として持ち出す「安全保障上の懸念」を、一定程度(あくまでも「一定程度」という但し書きを付したうえであるが)緩和する働きも期待しうる。

他方で、ロシアの抜きがたい対米不信と、その米国によって「主権を制限された国」として日本をみなす態度とを転換することは、短期的にも長期的にも困難であると思われる。少なくとも、ロシアの安全保障上の懸念さえ緩和してやれば、北方領土交渉が大きく進展するという幻想は抱くべきではないし、米国のコミットメントなしに日露間の実務的措置のみによって、ロシアの懸念を払拭することは望みがたいであろう。

日本外交(というよりも日本社会)の対露姿勢は、どうしても北方領土という「点」からロシアを見ることになりがちである。ここでは「北方領土は返ってくるのか、こないのか」という二分法が関心を集める。

2016年12月に来日したプーチン大統領だが、日本到着時刻が大幅に遅れた。問題はプーチン大統領がなぜ遅刻したかである。プーチン大統領の訪日前日は、シリアのアレッポから反体制派武装勢力が退去する最終期限であり、ロシア軍の監視下で実際に退去が進んでいる最中であった。

アレッポの陥落は、ロシアのシリア介入における一里塚と位置付けられており、プーチン大統領もギリギリまでクレムリンに留まって状況を監督していた可能性が高い。山口における日露首脳会談の翌日、東京の首相官邸で開かれた記者会見でも、ロシア側メディアのプーチン大統領に対する質問は、シリア情勢に関するものから始まった。この時、クレムリンから眺めた世界では、どこがクローズアップされていたかは明らかであろう。

善かれ悪しかれ、ロシアはユーラシア大陸全体に利害関係を有するプレイヤーなのであって、その思考は「面」的である。日本が「点」に拘泥するにはそれなりの事情があるにせよ、それは巨大な「面」との接点の一つであるという意識は、常に持っておく必要があろう。

▲地図:KerdaZz / PIXTA

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