ホー・チ・ミンを世界的革命者に押し上げた「工作員」としてのキャリア

世界に影響を与えた共産主義革命を起こし、ベトナム民主共和国を建国したホー・チ・ミン。彼にも「工作員」としてAGASに務めたキャリアがあった。インテリジェンスヒストリー(情報史学)に詳しい山内智恵子氏によると、現代中国の専門家であるマイルズ・マオチュン・ユ教授は、彼を工作員として登用したことが、共産主義革命の発端になったとの見解を示しています。ただのベトナム人共産党員は、いかにして出世階段を駆け上がっていったのだろうか?

■写真とピストルで大躍進したホー・チ・ミン

1944年10月、ルーズヴェルト大統領が、ジョゼフ・スティルウェルに代えて戦域司令官としたアルバート・ウェデマイヤーは、イギリスが諜報組織であるGBTをコントロールしているままでは、アメリカとGBTの共同作戦がうまくいかないと考え、仏印の指揮権を巡って東南アジア連合軍総司令官のルイス・マウントバッテンと争いました。

▲ルイス・マウントバッテン 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

ウェデマイヤーが担当する中国戦域は仏印を含むので、仏印における情報工作の指揮権も自分にあると主張しましたが、マウントバッテンは、蔣介石との口頭の「紳士協定」で仏印は自分に任されていると言って譲りません。口頭の約束だから書いたものは何もない、しかし仏印の指揮権は自分のものだというのです。

その決着がつかないうちに、1945年3月9日、日本がインドシナのフランス人レジスタンスを一斉に検挙しました。その結果、工作員としてフランス人だけを使っていたGBTグループはほとんどの工作員を失ってしまいます。ゴードンは残った工作員を引き連れて中国の昆明に避難しました。

失った工作員を補充するため、ローレンス・ゴードンは、GBTとの連絡係を務めている戦略情報局(OSS)担当者に、ベトナム人を採用したいと申し出ました。アメリカの戦時機関の一つ、戦時情報局(OWI)は、当時昆明にいたホー・チ・ミンを推薦しました。OWIは共産党員が多数浸透していた組織です。つまり共産党情報組織が、OWIを通じてこの件に介入したわけです。

▲ホー・チ・ミン 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

OSSの現場担当者は、3月7日にホー・チ・ミンと初めて会い、その場で航空地上支援局(AGAS)の工作員として採用しました。現場担当者はOSS所属なのに、なぜAGAS工作員として採用したかというと、GBTグループに指揮権譲渡を迫るOSS指導部の態度があまりにも激しいことに反発し、GBTと一緒になってOSS指導部に抵抗している状態だったからです。

担当者がホー・チ・ミンの背景調査をしたところ、フランスと中国国民党の情報機関は、ホー・チ・ミンは共産党員だと警告しました。担当者は国民党の警告をあまり信じず、AGASもホー・チ・ミン採用を承認しました。

ホー・チ・ミンは、クレア・リー・シェンノート将軍との面会を希望し、3月29日に希望が叶います。ホー・チ・ミンはシェンノートに、署名入りの写真をくれるよう頼みました。

シェンノートは、対日戦争の緒戦で米英が各地でボロ負けするなかでも、輝かしい戦果を挙げた有名人で、メディアの取材もよく受けていましたから、気軽に応じました。シェンノートとの会見が終わったあと、ホー・チ・ミンはOSSの担当者に、新品のピストル6丁を求めて、これも叶えられます。

▲クレア・リー・シェンノート 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

ホー・チ・ミンは、写真とピストルを持ってベトナムに戻り、シェンノート将軍と親しい証拠として写真をフル活用しました。そして、ホー・チ・ミンの属するベトナム独立同盟会のなかで、ホー・チ・ミンに嫉妬や反感を持つ反対派閥のリーダーたちには、ピストルを配って手なづけました。ホー・チ・ミンはこのときから、さまざまなベトナム人グループに影響力を拡大できるようになりました。

GBTグループは、ホー・チ・ミンを、単に失った工作員を補充するために採用した地元のベトナム人だと思っていましたが、GBTグループの工作員という役割は、ホー・チ・ミンの革命家としてのキャリアにとって大跳躍であり、ベトナムだけでなく、世界の歴史に数十年にわたる影響を与えた、重要な共産主義革命の始まりになったと、マイルズ・マオチュン・ユ教授は指摘しています。

■アメリカの本当の政策はなんなのだ?

ホー・チ・ミンにピストルを与えたOSS担当者は、のちに、こう述べています。「日本がフランス人レジスタンスを逮捕した1945年3月からの3ヶ月間が、ホー・チ・ミンにとって最も重要な転機となった。最初は数あるグループの1つのリーダーというだけだった。

アメリカ人には知られず、フランス人には妨害され、中国人には締め出され、武器も装備もなく、[母国ベトナムの]自分の組織からも400マイルも離れた場所にいた。……6月の終わりには、おおむねGBTのおかげで、圧倒的に強力な革命政党の揺るぎないリーダーになっていた」

ホー・チ・ミンが率いる工作員グループが非常に強力になったため、OSSとAGASの縄張り争いはさらに激化し、OSSへの反感を強めたGBTグループは、AGASの傘下に入りました。OSSの現場担当者も、一緒にAGASに行ってしまいました。

GBTグループをAGASに取られてしまったため、OSSは仏印での情報ネットワーク構築を図ります。そのために、OSSは、フランスのヴィシー政府派に接触しました。

ヴィシー政府は、フランスがドイツに降伏したあとに成立した親独政権で、ホー・チ・ミンら共産主義者や、ベトナムの独立を求める民族主義者とは敵対関係にありました。

OSSは、フランスの植民地を維持しようという意図は全くなく、ヴィシー政府派と組んだことは、仏印でのインテリジェンス工作の指揮権を巡る縄張り争いの単なる戦術にすぎませんでした。

しかし、OSSの行動は、アメリカがホー・チ・ミン率いる台頭しつつある共産革命に対抗して、フランスの植民地主義に味方するのか、という、政策的な大問題になってしまいます。仏印について、ワシントンが何も明確な指令を出していない状況のなかで、AGASとOSSが現場で競合し、縄張り争いをした挙げ句、インドシナの将来に重大な影響を与える政策問題につなげてしまったわけです。

フランスの植民地主義勢力と組んだOSSの行動は、当然ながらホー・チ・ミンの恨みと不信感を買いました。ホー・チ・ミンは、当初、自分がAGASに雇われているのだから、ワシントンは自分の側だと思っていましたが、やがてOSSの動きを知って失望し、OSSからAGASについて来た担当者に「アメリカの本当の政策はなんなのだ?」と慨嘆(がいたん)しました。

これが、「のちのアメリカの重荷を育んだのだ」とユ教授は批判しています。

※本記事は、山内智恵子:著、江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 -The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

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