アメリカ海軍中佐と中国スパイ組織のリーダーが結んだ信頼の話

日中戦争において、英中共同計画における手痛い経験のあと、イギリスの代わりに支援をしてもらえる国としてアメリカに期待を寄せていた中国。しかし、アメリカ人の差別意識が、中国との関係にひびを入れかねないという問題も抱えていた。現代中国の専門家であるマイルズ・マオチュン・ユ教授の研究によると、人種や文化の壁を乗り越えて、強い絆を育んだ米中のリーダーがいたようです。インテリジェンスヒストリー(情報史学)に詳しい山内智恵子氏が紹介します。

■アメリカに期待していた軍統の指導者・戴笠

米海軍は1942年4月、ミルトン・マイルズ中佐を重慶に派遣することを決定しました。

マイルズは中国での勤務経験が豊富でした。1922年にアナポリスの海軍兵学校を卒業後、1927年までアジア艦隊に所属し、揚子江のパトロール任務を務め、その後再び1934年から1939年まで中国に駐在しました。二度にわたる中国勤務のあいだに、第一次国共合作、国共分裂、蔣介石の北伐と統一、日中戦争などを目撃しています。

マイルズ・マオチュン・ユ教授によれば、マイルズはこうした経験のなかで、中国のナショナリズムの高まりを目の当たりにし、国際社会はそれを認めて尊重すべきだと強く感じたといいます。

当時、「メアリー・マイルズ・ミントン」という名のブロードウェイ女優が人気だったことから、「メアリー・マイルズ」というあだ名で呼ばれましたが、決して女性的だったわけではなく、気骨のある人物だったようです。1938年10月に日本が海南島を攻撃した際、偵察に赴いたマイルズは、近づきすぎて日本軍から警告されると、わざと意味のわからない「What the hell !」ペナントを掲げたという逸話があります。

▲海南島作戦 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

1939年に中国勤務が終わったあと、マイルズはワシントンの海軍工廠に配属されていました。ワシントンにはマイルズとかねて旧知の仲である、中華民国大使館駐在副武官の肖迅如がいました。中国への派遣命令を受けたマイルズが肖に会ったところ、肖は自分が本当は戴笠(たいりゅう)の部下であること、米海軍と中華民国の情報協力を行うのであれば、中国側の窓口は戴笠であることを打ち明けました。

マイルズがアメリカに到着した頃、戴笠は英中共同計画でイギリスに裏をかかれたばかりで、イギリスに代わって必要な支援を提供する能力のあるアメリカに期待していました。

戴笠は、中国共産党のスパイ活動に対抗するための無線や電波関係のハイテク機材、暗号解読の技術や、ゲリラ兵に与える装備と訓練を必要としていました。戴笠は、無線情報部を中国共産党の工作員に乗っ取られ、機密情報も秘密無線通信に使う周波数や、暗号表も盗まれていた手痛い経験があったからです。

▲戴笠 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン) 

戴笠はマイルズを歓迎し、マイルズは戴笠に、米海軍司令部から命じられた沿岸調査の任務を果たすため、沿岸の日本占領地域を見に行きたいと要望しました。1942年5月、戴笠は台湾対岸の福建省の日本占領地域まで、重慶から約1000キロの距離を同行しました。

戴笠は、基本的にアメリカの助力を歓迎する立場から、マイルズを歓迎していたということはあるのですが、目的地の浦城に着いた頃には、二人は個人的に、互いに敬意を持つようになっていました。旅行中、戴笠のもとに東アジア全域から何十人もの部下が報告にやってくるのを見て、マイルズは戴笠のスパイ組織の規模に圧倒されました。

一方の戴笠も、マイルズが厦門(あもい)で日本軍の砲火にさらされたときの冷静沈着な態度を見て感銘を受けています。

戴笠が浦城にいることが日本の情報機関に察知されたため、二人は猛烈な空爆を受けて稲田に身を隠しました。このとき、戴笠は「気象情報や日本の作戦に関する情報など、アメリカが求める情報を提供するのと引き換えに、私の5万人のゲリラ兵に武器を与えて訓練してもらいたい」とマイルズに持ちかけました。マイルズは英語で「OK」と答え、戴笠とマイルズは握手しました。

この稲田の握手が、現代軍事史上最大の米中共同準軍事・情報組織である、中米合作社(SACO)設立につながっていきます。

戴笠は、イギリスに騙された苦い経験があるので、今度は絶対にそういうことがないように、アメリカとのあいだでSACOについて法的拘束力のある文書を作らなければならないと考えていました。特に、自分が指揮権を握ることが、その文書によって保証されることが重要でした。

■中国人の信頼を勝ち取った海軍中佐・マイルズ

一方マイルズは、中国人を見下す白人優越主義的な態度が、どれほど中国人の反発を買うかを理解していました。中国人は、すでに何年も日本と戦ってきた経験があるので、アメリカが中国人から学べることがたくさんあると確信していました。

中国の情報工作員は、中国での作戦にあたってはアメリカ人と同じくらい優秀である、この戦争を米中はともに戦っているのであり、相互の信頼と協力によって一つの軍事ユニットとしてまとまることができるし、場合によっては中国人がアメリカ人を指揮することもできる、というのがマイルズの考えでした。

マイルズは、米海軍の任務やSACOのために中国にやって来るアメリカ人兵士たちに、こうした方針に基づいたオリエンテーションを行いました。

マイルズの講義は、中国人の同僚たちを最大限に尊重するよう促し、「チャイナマン」(中国人を意味する軽蔑的表現)や「苦力(クーリー:中国やインドの下級労働者に対する外国人の呼称)」と呼んだり、アメリカの食べ物を「文明的」と言ったりしてはならない、ピジン英語(18~20世紀に中国の沿岸地域で使われていた、英語と中国語の混合言語。文法や語彙が極めて簡略化されていた)で話しかけてはならないなど、してよいことと、してはいけないことを具体的に教える、というようにきめ細かいものでした。講義のなかで、マイルズは次のように教えています。

諸君は暗黙のうちに同盟者を信頼しなければならないし、彼も諸君を信頼しなければならない。彼は諸君が配置される土地で生まれ育った。彼はその土地を、掌(たなごころ)を指すように知っている。村も、道も、路地も。彼は君を好きになり、尊敬し、信頼しなければならない。彼は、自分が生きたいと思うのと同じく君にも生きてほしいと思うのでなければならない。そうでなければ、彼は君が捕らえられるに任せ、服を着替えて、彼とそっくりに見える何百万人もの中国人に紛れ込んでしまうことができる。

戴笠がマイルズを信頼したのは、マイルズがほかの白人と違って、中国人を尊重するタイプだったことが大きいのですが、マイルズの考え方は当時としては革命的で、米軍や米政府から批判されました。

特に抵抗が大きかったのは、米中の人員を統合したSACOの司令官として、中国人である戴笠を置き、自分はその下の副官になったことです。統合参謀本部も、アメリカ大使も、陸軍も大反対しましたが、激論の末、1943年4月、ついに米中双方の軍と政府の代表者によるSACO協定署名を取り付けます。

もちろん、他国の司令官の指揮下に自国の兵士を組み込むのは避けるべきだ、ということは正論なのです。ただ、SACOの場合、マイルズと米海軍は、これは中国の戦争であり、中国で対日非正規戦を行う能力は、中国のほうがアメリカよりずっと高い。従って、米海軍は中国人の有能な将校と指揮権を共有することに、なんの問題もないと考えていました。

また、確かにSACOの組織のなかでは戴笠がトップで、マイルズが副官ですが、二人は親密なパートナーだったので階級的順番はほとんど問題にならず、完璧な協力関係を築くことができました。

▲アーリントン国立墓地のミルトン E. マイルズの墓 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

※本記事は、山内智恵子:著、江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 -The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

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