デモ隊の武勇派が一網打尽に逮捕された香港大学戦争の戦略ミス

香港デモが拡大していくなかで「大学戦争」が始まりました。勇武派の若者たちが、抵抗者に大学に集まるよう呼び掛け、戦闘の布陣を敷いたのです。日本では、抵抗者たちが大学に立てこもり籠城戦を行っているように報じられていましたが、その実情を香港デモを現場で取材してきた福島香織氏が証言する。

■4000人以上が大学に立てこもり抵抗

2019年11月8日、初の公式の犠牲者が出たことから香港の若者の怒りは頂点に達し、香港では11日から3ゼネスト(授業スト・商業スト・交通スト)が呼び掛けられ、同時に「交通妨害作戦」という道路封鎖作戦が展開されました。

そして香港五大学(中文大学・理工大学・城市大学・香港大学・浸会大学)でいわゆる「大学戦争」が始まりました。抵抗者に大学に集まるよう呼び掛けられ、戦闘の布陣を敷いたのです。なかでも激しい現場が中文大学と理工大学でした。

どうして大学が戦闘現場になったのか。これには2つ説があります。

1つは、香港警察側に五大学を同時に制圧するという噂があり、それまで街中で破壊と戦闘を行っていた勇武派の若者たちが「大学を守れ」と集結したという説。

大学には、勇武派の頭脳やキャンパスメディア、SNS発信者グループなどが集中しており、また中文大学にはHKIXと呼ばれるインターネットエクスチェンジセンターがあり、警察はインターネットの拠点や頭脳が集中する大学を狙ったという言説も流れました。

もう1つは、市民にストレスを与える市街地での“戦闘”を減らそうと勇武派たちが、警察を大学に引き付けようとしたという説。

大学は聖域であり、警察も簡単に攻め入れまいと考えたのです。特に中文大学は、山岳要塞にも似て難攻不落と言われていました。中文大学2号橋の下は、香港の主要幹線道路のひとつで、吐露港公路と鉄道路線東鉄線が通っており、橋の上から物を落下させる「交通妨害作戦」を取りやすい、ということもありました。

▲香港中文大学 出典:ウィキメディア・コモンズ

結果から言えば、この大学を拠点とした「戦争」は完全に戦略ミスであり、勇武派たちの多くが一網打尽に逮捕されました。理工大学での逮捕者は未成年も含めて1100人を超えたといいます。

中文大学では11月12日夜、防暴警察(機動隊に相当)が、2号橋付近に立てこもるプロテスター(若者たち、以下・抵抗者)に対して、学校側の許可を得ずに突入し、数時間にわたる激しい“戦闘”を行いました。

このとき、抵抗者と学生たち合わせて4000人以上はいたと言います。警察からは催涙弾やゴム弾2000発以上が発射され、学生側は火炎瓶などで応酬、70人以上の学生が負傷しました。

衝突のあと警察はいったん引いて、その後5日間に及び、若者たちが立てこもる形で戦闘が続きました。中文大学の各門や入口は、デモ隊がバリケードを築き、廃車を燃やすなどの激しい抵抗をしました。自前の爆弾でキャンパスに通じる2号橋を落とす準備もしていたという噂が広がりました。

※現場に居合わせた複数のセルフメディアに、デモ隊に確認してもらったところ、爆弾準備はデマだったとのこと。また抵抗のために廃棄自動車を燃やしたのは、意図したものではなく、廃車を火炎瓶の貯蔵庫として利用していたところ、近くで若者の一人が吸っていたタバコが引火したのが真相だとのこと。

抵抗者たちは大量の火炎瓶や手製の槍、アーチェリー部の弓を持ち出したり、ボウガンを作ったり、鉄菱を作ったりして、玉砕覚悟の白兵戦の構えを見せていました。また、キャンパスバスのキーを壊し、運転して仲間の移動支援を行いました。

さらにパトロールや給食、衛生管理といったシステムを構築し、戦闘に備えて投てき練習や肉体の鍛錬などを行いました。木材や竹竿を立てて壁を作り、一人がやっと通れるくらいの出入り口を作り、黒衣の抵抗者たちが身分チェックや携帯品チェックを行いました。これは警察がデモ隊に紛れて侵入するのを防ぐためでした。

■仲間割れから参加者の大半が自主的に撤退

11月12日の「戦闘」以降、中文大キャンパス内には、大量の戦闘物資や雨傘、ヘルメットにガスマスク、ペットボトル水などが持ち込まれ長期戦に備えました。一方、留学生らは安全のため撤退を始めました。日本人留学生も50人ほどいたようですが、大使館の指示もあってほとんど退去しました。

11月15日未明ごろ、抵抗者は吐露港公路の障害物を取り除き、片側車線を通行可能にしました。彼らはこの幹線道路を開放したり塞いだりして、幹線道路を支配しているところを見せて、香港政府に24日に予定されている区議会選挙を予定通り行うことを保証するように求め、同時に逮捕者を釈放し、警察に対する独立調査委員会を設置するよう求めたのです。

24時間以内に答えを出さねば、再び道路を封鎖するとして、本格的な交渉を行うつもりでした。ですが、この作戦が、思わぬ内部分裂を生みます。

この要求は、勇武派のなかでも「黒服」と呼ばれる好戦的なチームが勝手に発表し、学生会を中心とした理性派は、こうした駆け引きを「黒服」チームが勝手に始めたといって不満をぶつけました。こうした仲間割れが起きたところで、香港政府と中国側は大学に揺さぶりをかけてきました。

新華社は11月15日に、中文大学を名指しで香港の大学は無法の地となり、“すべての暴徒”は法的制裁を受けるだろう、と社説を発表。社説は香港の大学と学長らに暴徒を制止する責任があるとし、秩序回復の共同責任を負って警察の執法行為に協力せよ、と要求しました。

この日、中文大学の崇智学長は公開書簡を発表し、2号橋はキャンパス内にあるが、政府用地に属するものだ、として抵抗者たちに即刻退去するよう呼び掛けました。でなければ、学長としては香港政府に協力せざるをえない、と。

この呼び掛けに応じて、すでに仲間割れを起こしていた若者たちや学生の大部分は、自主的に撤退しました。

断固抵抗を続けるグループが、2号橋を挟んで警官隊と対峙。15日夕方ごろ、手製爆弾で橋を落とす計画がある、との噂が広まりました。断固抵抗グループは撤退するか、死ぬまで戦うか二者択一を迫られ、15日午後8時半には、2号橋付近で徹底抗戦を決意した30人ほどが残りました。

最終的には11月16日未明には、全員が撤退を選び、最悪の事態は回避されたのでした。このとき、不思議なことに警察は2号橋から遠く引いて、中文大学から出てきた抵抗者たちが理工大学に再集結することを許したのです。

▲香港理工大学 出典:ウィキメディア・コモンズ

■理工大学の抵抗者たちに対して実弾使用許可

理工大学の抵抗は11月17日から激化しました。

17日夜、警察は漆咸道南(チャタムロード)から装甲車や高圧放水車を使って、抵抗者たちの封鎖を突破して学内に侵入しようとしましたが、彼らは大量の火炎瓶を投げつけ、装甲車が燃え上がる事態になりました。

18日に警察は再び学内に突入、抵抗者たちは火炎瓶やボウガンで抵抗し、この衝突で多数の負傷者や逮捕者が出ました。

香港警察側は理工大学の抵抗者たちに対して、LRADと呼ばれる音響兵器を初めて持ち出した他、AR−15式アサルトライフルやMP−5サブマシンガンを携帯し、実弾使用許可も出ていました。

17日昼から大学内で取材をしていたセルフメディアの友人ボノによれば、夜になって警察は理工大学のすべての入り口を包囲し封鎖、抵抗者や記者たちは中に閉じ込められるかっこうになりました。

この大学は九龍半島の紅磡(こうかん/ホンハム)湾に近いところにある東洋有数の理工大学で、中文大学と違い比較的狭く、都市部にあるので警察にとっては包囲がしやすかったのです。

▲香港理工大学校門につくられたバリケード 出典:ウィキメディア・コモンズ

投降の呼び掛けに応じて出てきた者は、無差別に逮捕され、激しい暴行を受ける者もありました。ボノは自分が逮捕されかねない状況に陥って、東京にいる私にも、彼のSOSが伝えられました。

彼によれば、手製のボウガンや火炎瓶で応戦しようとする抵抗者たちに、警察は「実弾をもって反撃する」と警告していたそうです。

そのあと、投降して出てくるようにとの呼び掛けに応じて、一部の若者が武器を捨て指定された入り口から出ると、すでに無抵抗なのにもかかわらず地面に押し倒され、殴る蹴るなどの激しい暴行を受けました。顔を蹴られる者もいたそうです。

セルフメディアや医療ボランティアまでが、そうした暴行を受けたうえで問答無用で逮捕されていきました。

■「選択肢は2つ」セルフメディア記者の覚悟

この様子を見て、投降したくとも怖くて抵抗者たちは投降できなくなったそうです。逮捕されたあと、拘置所での性暴力を含む暴行や虐待にあうとも言われていましたから、その恐怖は理解できました。

彼は言います。いっそ瀕死の重傷を負った方がいい、と。瀕死の重傷なら病院に運ばれるだけです。ですが、逮捕されて拘置所に連れていかれると、そのまま行方不明になって、ひどい虐待と暴行を受けて最後には身元不明の自殺体になってしまうかもしれない、と。

日本では、抵抗者たちが大学に立てこもり籠城戦を行っているように報じられていましたが、実際は、彼らはキャンパス内に閉じ込められ心理戦でいたぶられていたのです。

ボノは閉じ込められた学内からSNSでこう訴えていました。「選択肢は2つしかない。投降して暴行されて逮捕されるか、キャンパス内で警察の突入を待って暴行されて逮捕されるか」。

私は友人のセルフメディア記者たちに、仕事を手伝ってもらっている代わりに、日本のCSテレビ局『チャンネル桜』の協力を得てプレスカードを渡していました。日本メディアのプレスカードがあれば、警察に捕まったとき、日本メディア記者として釈放してもらえるかもしれないと思ったからです。

「日本のメディア関係者に、香港警察は手を出せるのか?」と私が聞くと「公認メディアでないとニセメディアとして逮捕される。実際、キャンパスメディアやセルフメディア記者が何人も逮捕されている」とボノは答えました。「警察が、そんなメディアなど知らない、といえばそれで終わりだ」と。

結局、私は「近くにAP・ロイター・共同といった大手メディアの記者がいれば、彼らと行動を共にして。いざとなったら、彼らの助手だと証言してもらうように頼みなさい」としかアドバイスできませんでした。

この後、ボノくんはヘルメットにつけたゴープロ(アクションカメラ)を回しながら、キャンパス内を取材し、紆余曲折を経て無事に警察の包囲網を突破して、19日に私たちの元に帰ってくるのですが、それまでは本当に心配で気が気ではありませんでした。

私は11月22日に香港デモ開始から4回目の現地取材に入り、23日夜にボノの無事な姿に会えて、本当にほっとしました。

■香港理工大学内で現場取材をしていたボノの証言

以下は、ボノから聞いた話です。

彼は17日昼頃から、香港理工大学内で現場取材をしていました。11月17日午後に大学が警察に包囲され、閉じ込められる形になりました。警察は、17日深夜に装甲車を燃やされたことで、頭にきていた様子だったいいます。その怒りは逮捕者に対する激しい暴行という形で現れ、それは医療ボランティアであろうがセルフメディアであろうが容赦なしでした。

それで彼は、投降呼び掛けには応じず、学内の若者と一緒に脱出を試みることにしました。

理工大学の建物は迷宮に似た構造であり、一本の廊下で校舎と校舎がつながる構造になっていました。その廊下の通行を妨害すれば、警察も絶対に入ってこられないので、上層のプラットフォームにある建築群を若者たちが占拠し、もし警察が突入してきて階段から上がろうとしたとき、上のプラットフォームから物を投げて警察の侵入を阻止しようという作戦を練っていたそうです。

▲水砲車の攻撃を受けるデモ隊 出典:ウィキメディア・コモンズ

抵抗者たちは、理工大学の裏側に医療ステーションや休息室、記者休息室などを作っており、シャワーは浴びることができたそうです。学内食堂に「抗争食堂」と名前が付けられ、学生たちを応援するためのボランティアコックが、温かい食事を提供してくれていたそうです。

抵抗者たちは交代で「歩哨」に立ち、24時間体制で警察の動きを見張っていました。また、広場で火炎瓶弾やボウガン、さらには数台の巨大ボウガンや投石機などを作り、テスト運転を繰り返して戦いに備えていました。

ですが警察が徹底包囲したあとは、新鮮な食糧が減っていくこともあって、不安になってきました。警察は夜に拡声器で音楽を流し、狙撃手・高圧放水車・装甲車・無数の防暴警察が包囲しているぞ――と訴え、投降するように呼び掛けていました。

当初、なかの若者たちは、民間記者会の呼び掛けで集まった市民たちが、警察の包囲網を突破してきてくれることに期待していたのですが、市民たちも逮捕されるのが怖いものですから、いつまでたっても助けは来ません。

学内には負傷者が多くおり、手当も十分でなかったので、不安感にいたたまれなくなってきていました。18日には完全に士気が落ち、警察の包囲網を突破して脱出しようと試み始めました。

18日の朝に、最初の集団脱走が試みられました。門などからみんなで、一斉に走りだして突破しようという単純なもので、これは外に出た全員が、制圧されて逮捕されたようです。昼にもう一度脱走を試みましたが、100人くらいで一斉に外に出て、5人くらいしか無事逃げおおせることができませんでした。

ボノは脱出場所を間違って、あやうくキャンパスに隣接する解放軍キャンプの敷地に侵入してしまうところだったそうです。

▲対暴動用特別警察「スピードドラゴン」に捕らえられるデモ隊 出典:ウィキメディア・コモンズ

あとで、学内でずっと取材していた著名な戦場カメラマン・宮嶋茂樹さんから聞いたのですが、香港の若者たちは恐怖から一人で行動できず、ついつい群れて行動してしまうため、警察に感づかれて脱出が失敗していたようです。

宮嶋さんのようなプロの戦場カメラマンからみれば、香港警察の包囲網は必ずしも厳密ではなく、外から出入りできる隙はあったとか。

何度か脱走に失敗しているうちに、彼らも大人数で動くことが失敗の原因だと気づき、脱出計画は各小グループに分かれて、独自で脱出ルートを探る形になっていきました。

すると、成功率が上がっていきました。

ある者は、下水道工事の会社のホームページから下水道地図を見つけ出し、学内から学外へ通じる最短の下水道を通って脱出に成功しました。ですが、数人がそのルートを使ったところで、警察側に察知されて封鎖されてしまいました。

別のある者は、陸橋からロープを使って降りる方法を見つけました。ですが、それにはかなりの運動能力や腕力が必要で、途中で落ちて骨折して動けなくなる人もいました。

■命懸けの脱出。そのときサーチライトが・・・

ボノは、抵抗者の若者5人とともに脱出を試みました。

夜の闇に紛れて懐中電灯を消し、怯えながらフェンス際を静かに移動しながら、脱出できそうな場所を探しました。貯水槽の上に下水道を見つけたのですが、ものすごい悪臭で、そこから脱出する気にはなれませんでした。

さらに大学の外郭をなぞるように前進していくと、高台の上にフェンスが少し倒れて乗り越えられそうなところを見つけました。見たところ警察の数も多くなさそうでした。安全な場所までは数百メートルの距離だとみて、そこから脱出を試みました。

ですがフェンスを越えると、防暴警察が高所から脱出する者たちの前方を見張っているのが見えました。ボノは、この監視網をくぐって脱出するのは難しいので、無理だと判断して、学内に一度戻った方がいいのではないかと言いました。2人が学校内に戻りましたが、残りの3人は強硬突破すると言いました。

ちょうどそのとき、見張りの警官が別の場所から飛び出た脱出グループを見つけて、拡声器で投降を呼び掛けました。さらに、突然十数名の防暴警察が突進してきて、平衡に催涙弾を撃ち放ったのです。煙幕がもうもうと上がり、混乱状態になりました。

ボノと強硬突破しようとした3人はその隙に、走り出しました。後ろの方で催涙弾の発砲音と罵声を聞きながら、ひたすら走ったといいます。

そのときボノにサーチライトが当たりました。観念して、せめて他の3人をうまく逃がそうと思い、一人で見張りの警官の注意を引くことにしたそうです。大声で「私は日本の記者だ」と叫んで両手を上げました。2人の警官がボノを拘束し、警察の包囲網の防衛線まで連行し、身体検査と尋問が始まりました。

彼は私が渡した『チャンネル桜』の記者証を見せて、もともと学外にいたようなふりをしましたが、警察は、あのフェンスあたりから、よく鼠が出てくるんだよなあ。かわいいよなあ」と笑いました。さらに「お前を逮捕する権利があるんだぞ」と恫喝してきました。

ボノは「私は日本の大手メディアの公認記者だから、逮捕できないはずだ」と言い返しました。

すると警察官らは「いったい誰が、そんなこと言ったのだ?」と聞くので「あなたたち警察が、そのように発表している」と答えました。

最終的に、彼らはボノを釈放してくれました。面倒臭くなったのか、あるいは日本メディアとトラブルになるのが嫌だったのかはわかりません。

警察の防衛線から離れたところで、ボランティア運転手たちが、デモの若者たちを家に送り届けようと待機していました。ボノの知り合いの運転手もいたので、彼の車に乗り込んで、ようやく脱出できたことが実感できたそうです。

脱出したあと、彼は家で熱を出して丸二日寝込んだといいます。

※本記事は、福島香織:著『新型コロナ、香港、台湾、世界は習近平を許さない』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

〈福島 香織〉

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